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縁起の法と修行の道」

 

 

すべてのものは因縁所生

 

しかし仏教では、すべては縁起であり、因縁所生のものであるから、永遠不滅の実在などなく、 あらゆる存在が業により生じ、 業によって滅していくと考えるわけです。仏教も輪廻転生を根本 教義の一つとしておりますが、アートマンが輪廻転生するとは考えません。アートマンは実在し ない。これを中国では「無我(旧訳では非我)」と訳しました。アートマンを「我」と漢訳し、そ 「我」がないということで「無我」としたわけです。 すべてが因縁により生じ、因縁によって 滅するのであるから、人は運命を変えることができるのです。それが仏教の基本的な立場であり、 バラモン教やヒンドゥー教と違う点です。

もしもアートマンが実在し、それが輪廻転生するのであるならば、人は運命を変えることも、 輪廻から解脱することもできません。 なぜならばアートマンは常住不滅・常恒不変なのですから、 消滅させることも変化させることも不可能だからです。アートマンなどは実在せず、すべてのも のが因縁によって生じ、また滅していくからこそ、人は生死輪廻から解脱することができるわ けです。お釈迦さまはそのように縁起の真理を説かれました。

さらにバラモン教やヒンドゥー教では輪廻転生を説くものの、そこからの脱出方法は、あまり 明確には示しておりませんでした。そのために古代インドの人々は、非常に苦しんだのです。輪 廻の中で生き続け、そこから脱出することがままならないわけですから、彼らは来世を案じて苦 しみました。

「来世はよい境界に生まれたい」

あるいは、

と考えました。

いかないまでも、悪に堕ちたり動物や虫に生まれて悲惨な一生を送りたくなバラモン教やヒンドゥー教も葉報思想を持っておりますから、現世で悪業を積んだならば、 来 世は悲惨なものに生まれて苦しむぞと説きます。 犬に生まれてくるかもしれないし、豚に生まれ ソーセージにされてしまうかもしれない。 またはゴキブリに生まれて、叩き殺されるかもしれ ません。 来世はなにに生まれるか分からないのですから、一分一秒たりとも気が抜けないのです。 これは古代インドの人たちにとって、すさまじいプレッシャーになりました。現代のヒンドゥー 教徒も同じです。 彼らは常に来世を考えて行動しています。 現在よりも来世のことを考えて、 戦々恐々としているのです。そして、来世で苦しみの生を享けないように、神々を拝み、供物を 捧げています。 古代インドでも現代のインドでも同じです。 これでは生きた心地がしないだろう、 とわたくしは思います。

ところがお釈迦さまが、 アートマン思想が蔓延している古代インドに出現されて、「すべては因縁所生であって、アートマンなどという常住不滅・常恒不変の実在などはない」と縁起の法を説かれ、さらには輪廻から完全に解脱する方法・成仏法を説かれたものですから、 当時の人々は、みな、びっくりしたわけです。

けれども、お釈迦さまのおっしゃることをよく聞いてみると、なるほどと納得できます。 お釈 一旦九

迦さまの教法によって、当時のインドの人々の心からプレッシャーがなくなりました。 これが、 お釈迦さまの教法がもたらした、第一の救いでした。日本人の、それも現代人のわたくしたちに はなかなか理解できませんが、彼らには最高の福音だったのです。

すべてが縁によって起こる。 縁によって生じ、緑によって滅するのであって、 常住不滅・常恒 不変のものはなにもない。これは、すばらしい真理です。 昔、日本のある名僧が、縁起の法を歌 に詠まれました。

引き寄せて結べば朱の庵かな解くれば元の野原なりけり」

じつに分かりやすい名歌ですね。野原に小屋のような庵が一軒あります。それはいろいろな木 材や茅・柴を縛ったり組んだりして造られているけれども、それらをばらばらにしてしまった ら、もとのなにもない野原に戻ってしまう。板きれ、 茅、 柴が転がっているだけの、ただの野原 です。それらの材料を集めて、家の形にしたならば庵になるけれども、ばらばらにしてしまった ら、もう庵ではありません。材料が緑によって集まり、仮合して庵になっているだけですから、 それは常恒不変ではありません。 存在はしているけれども、実在ではありません。 これを仏教で は「空」と呼びます。

人もの庵も同じです。わたくしも緑によって桐山靖雄という人間になっているだけで、桐山 靖雄としての縁がなくなったならば、違う存在になってしまいます。まさに空です。 縁起という ことは、すべてのものが条件によって変化し続けることでもありますから、古い訳では縁起の法を変易の法としております。 変易とは変化するという意味です。

お釈迦さまは、「一切は空であって一切告空)、アートマンはない(諸法無我」と説かれました。緑によって生じ、緑によって滅するのだから、 常住不滅・常恒不変の自我が実在すると考え るのは間違いなのです。

ところがそれでも、アートマンが実在すると信じている人がたくさんおります。 縁起の法が分 からない、あるいは理解しようとしないという煩悩が身見なのです。 前述のようにアートマンは 「我」と漢訳されますので、身見は別名を我見といいます。

身見のもう一つの意味は、常住不滅・常恒不変の実在がないということが理解できないために 生じる自己中心的な考え方です。 凡夫は永遠不滅の自我があると考えるために、自分に執着し、 「自分のもの」に執着します。 これを仏教では我執といいます。この世に「自分のもの」などあ りはしません。 今、自分が所有していたとしても、それは自分のところに来る緑がたまたま存在 したから、仮に自分のところにあるだけで、永遠に自分の手もとにあるわけではありません。 緑 がなくなればだれかの手に渡ったり、壊れてなくなったりします。 しかし、縁起の道理が分から ないから、

「自分のものなのに!」

と執着するのです。これも身見です。

仏道修行者は、永遠不滅の自我が実在しているという妄執と、なんでも自分中心に考える我執 を断ち切らなければならないのです。

この場合の疑惑とは、ただ物事を疑って信じないということではありません。 仏さまの正しい

教えを疑い惑って、なかなか信じないという意味での疑惑です。お釈迦さまの正法に疑いを持つ 煩悩、これが疑惑です。

戒取とは、お釈迦さまの正しい教え以外の宗教、あるいは倫理・道徳・哲学などを信じて、お 釈迦さまの真実の教法を信じようとしない煩悩です。

-三結断じた第一の聖者

以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀酒です。 須陀酒は別名を預流といいま す。流れに預かる (入る) と書くわけですが、どのような流れに入るのでしょうか?これは聖者の流れに入るという意味です。須陀酒になった人は聖者で、須陀酒になっていない 人は凡夫です。それで須陀酒を聖俗の分かれ目とします。 須陀酒になると二度と聖者の流れから 堕ちることはなく、必ず成仏に向かいますので、これを「不退転の法を成する」というのです。 もちろん同じ須陀洹でも、須陀洹になってからの修行の具合によって、成仏までの時間は異な ります。一生懸命に修行をするならば早く成仏しますし、怠けていたならば時間がかかります。 けれどもいずれにしても、必ず最後には成仏します。

「阿含経」には、須陀は人間界と天上界を七度往来して成仏する、と記されております。 須陀 がこの世を去ると、天上界に生じて天になります。 仏教の天とは、「運を天に任せる」の「天」 のようなとらえどころのないものではなく、サンスクリット語の「デーヴァ」を訳したもので、 神の境界のことです。 仏界と人間界との間に、天上界という神々の世界があるわけです。天は仏 のように完全な解説は得ていません。 しかし、人間よりは解脱に近づいている存在です。

一般に、天は一神通を持つとされます。 ○○天という名前でお祀りされているのはみな天上界 の神々で、成仏はしていないものの一つの神通を身に備えておられます。たとえば大黒天、弁才 天韋駄天などがそうです。韋駄天は韋駄天走りという言葉があるように、駿足の神さまです。 あっという間に二、三百キロメートルくらい走ってしまいます。ですからマラソン選手などは、 韋駄天を信仰するとよいかもしれません。弁才天というのは芸能の神です。 芸能面に関する、す ばらしい神通力を持っておられます。

須陀は寿命が尽きると天になり、 一神通を使って人を救います。そのように、天上界におい でも修行するのです。 天での寿命が尽きると、須陀道は人間界に戻ってきて、ここでも世のため になるようなことをします。それで人間界での寿命が尽きたならば、再び天界に行くわけです。 合計で七回往来するとされています。

須となって天上界へ行った人がこの世に帰ってきた場合 天上界では天として一神通を 持っていたわけですから普通の人が持たないような、すばらしい力を必ず発揮します。ひょ とすると大天才といわれる人物は、天から戻ってきた人なのかもしれません。 モーツァルト (一七五六一七九一)などは、三歳のころから神童といわれ、五歳で作曲を手がけたそうです。

 

 

All things are born of fate

 

However, in Buddhism, everything is dependent on origin and is born through fate, so there is no such thing as an eternal and immortal existence, and all existence is born through karma and is destroyed through karma. Buddhism also considers reincarnation as one of its fundamental tenets, but it does not believe that the Atman reincarnates. Atman is real and he is not. In China, this was translated as “non-self” (in the old translation, non-self). Atman was translated into Chinese as “I,” and since there is no “I,” it was translated into “non-self.” Because everything comes into being and ends by fate, people can change their destiny. This is the basic position of Buddhism, and it is different from Brahmanism and Hinduism.

If Atman exists and reincarnates, then one cannot change one’s destiny or escape from reincarnation. This is because the Atman is eternal, eternal, and unchanging, and cannot be annihilated or changed. There is no such thing as the Atman, and all things arise and perish due to fate, and it is precisely because he is the one who can liberate himself from the cycle of birth and death. The Buddha preached the truth of dependent origin in this way.

Furthermore, although Brahmanism and Hinduism preach reincarnation, they do not clearly indicate how to escape from it. The people of ancient India suffered greatly because of this. Since they continued to live in the cycle of reincarnation and were unable to escape from it, they suffered in fear of their next life.

“I want to be born with good boundaries in my next life.”

or,

I thought.

Brahmanism and Hinduism also have the idea of “haha”, which does not want to fall into evil or be born as an animal or insect and lead a miserable life. I preach that if you are born into misery, you will suffer. You may be born a dog, or you may be born a pig and become his sausage. Or he might be born a cockroach and be beaten to death. I don’t know what I will be born into in the next life, so I can’t relax even for a minute. This put tremendous pressure on the people of ancient India. The same is true of modern Hindus. They always act with the afterlife in mind. They are thinking more about the next life than the present, and are fearful. In order to avoid suffering in the next life, they worship the gods and make offerings. It is the same in ancient India and modern India. I don’t think this will make me feel alive.

However, the Buddha appeared in ancient India, where the idea of Atman was widespread, and preached the law of dependent origin, saying, “Everything is due to fate, and there is no such thing as Atman, which is an ever-living, immortal, eternal, unchanging entity.” Furthermore, the people of the time were astonished because he taught the method of attaining Buddhahood, a method for completely liberating oneself from reincarnation.

However, if you listen carefully to what Buddha says, you will understand. Interpretation once nine

Lord Buddha’s teachings removed pressure from the minds of the people of India at that time. This was the first salvation brought about by Buddha’s teachings. Although it is difficult for Japanese people, especially us modern people, to understand him, he was the best gospel for them.

Everything happens because of connections. It arises through connection and perishes through greenness, and there is nothing that is everlasting, eternal, or unchanging. This is a wonderful truth. A long time ago, a famous Japanese monk wrote a poem about the law of auspicious origin.

If you pull it together and tie it, it will be a vermilion hermitage, or if you untie it, it will be the original field.”

It’s a great song that’s really easy to understand. There is a hermitage that looks like a hut in the field. It is made of various types of wood, thatch, and brushwood tied together and tied together, but if you tear it apart, it will return to its original, empty field. It’s just a field with pieces of planks, thatch, and bushes lying around. If you gather those materials and make them into a house, it becomes a hermitage, but if you break it up into pieces, it is no longer a hermitage. It is not a permanent hermitage because the materials are gathered together by the greenery and temporarily combined to form a hermitage. It exists, but it is not real. In Buddhism, this is called “emptiness.”

The same goes for Hitomono-an. I am also Yasuo Kiriyama because of Midori, but if I were to no longer have that connection as Yasuo Kiriyama, I would become a different person. It’s just empty. Dependent origin also means that everything continues to change depending on conditions, so in older translations, the law of dependent origin is the law of change. Change means to change.

The Buddha taught that “All is empty and all is empty, and there is no Atman (all dharma is selfless.”) Since green is what arises and green is what annihilates, the ever-living, immortal, ever-changing ego is real. It is a mistake to think that.

However, there are still many people who believe that the Atman is real. The earthly desires of not knowing or not trying to understand the Law of Dependent Origination are what we see. As mentioned above, Atman is translated into Chinese as “I,” so “Mimi” is also called “Gami.”

Another meaning of “miken” is the self-centered way of thinking that arises because one cannot understand that there is no eternal, eternal, and unchanging reality. Ordinary people think that they have an eternal and immortal ego, so they become attached to themselves and to what is “their own.” In Buddhism, this is called self-control. There is no such thing as “mine” in this world. Even if you own it now, it is only because the greenery that came to you happened to exist, so it is not in your hands forever. If the greenery runs out, it will end up in someone else’s hands or break down and disappear. However, since he doesn’t understand the principle of dependent origin,

“Even though it’s mine!”

I am obsessed with it. This is also my personal observation.

Practitioners of Buddhism must break free from the delusion that an eternal and immortal self exists and from the self-centeredness of thinking about everything.

Doubt in this case does not just mean doubting something and not believing it. Buddha’s righteousness

Doubt in the sense of doubting the teachings and having a hard time believing them. The earthly desires that doubt the Buddha’s righteous teachings are doubts.

Precepts are the earthly desires of people who believe in religions, ethics, morals, philosophy, etc. other than the correct teachings of the Buddha, and refuse to believe in the true teachings of the Buddha.

-The first saint who severed the three ties

A Sudarake is a person who has completely cut off all three of the above-mentioned personal observations, suspicions, and precepts. Another name for Sudakake is Yukinryu. It is written as “to follow the flow” (to enter), but what kind of flow do we enter into?This means to enter into the flow of the saints. Those who have become Sudakake are saints, and those who have not become Sudakake are ordinary people. Therefore, Suda sake is considered to be the dividing line between the sacred and the secular. Once you become Suda Sake, you will never fall from the stream of saints again and will definitely head towards Buddhahood, which is called “fulfilling the unfailing Dharma.” Of course, even within the same Suda-sun, the time it takes to reach Buddhahood differs depending on the level of training one has undergone since becoming Suda-sun. If you practice hard, you will attain Buddhahood quickly, but if you are lazy, it will take time. But either way, you will definitely attain Buddhahood in the end.

In the Agon Sutra, it is written that Sudha travels between the human world and the heavenly world seven times and attains Buddhahood. When Sudha leaves this world, he arises in the heavenly world and becomes heaven. In Buddhism, heaven is not something as elusive as the word “heaven” in “leaving one’s luck to heaven,” but is a translation of the Sanskrit word “deva,” which refers to the boundaries of God. Between the Buddhist world and the human world, there is a world of gods called the heavenly world. Heaven has not received a complete explanation like Buddha. However, they are closer to liberation than humans.

Generally speaking, heaven is said to have one divine connection. The gods enshrined under the name ○○ten are all gods of the heavenly world, and although they have not attained Buddhahood, they possess a divine power within themselves. For example, Daikokuten, Benzai Tenvaidaten, etc. Idaten is the god of swift feet, as the word Idaten runs. He can run about two or three hundred kilometers in no time. Therefore, it may be a good idea for marathon runners to worship Idaten. Benzaiten is the god of entertainment. He has amazing supernatural powers when it comes to entertainment.

When Sudha reaches the end of his life, he becomes heaven and uses his power to save people. In the same way, he practices in the heavenly realm. When his life in heaven is over, Sudhado returns to the human world, and here too he does what he does for the world. When his life in the human world comes to an end, he goes back to heaven. It is said that there will be seven trips in total.

If a person who went to the heavenly world as a man comes back to this world, he will definitely exhibit wonderful powers that ordinary people do not have, since he had the power of one god in the heavenly world. Perhaps the person who is said to be a great genius is someone who has returned from heaven. Mozart (17561791) was said to be a child prodigy from the age of three, and began composing music at the age of five.

 

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

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因縁断ち切りの道:釈尊の教えと完全なる因縁解脱」

 

 

 

真正仏舎利を本尊とし、
釈尊直説の成仏法を修行する

ヒトはみな、環境(国や時代、家族等)や性別、容貌、体質、性格等において、それぞれ異なる条件を持って生まれます。
さらに、これらの条件の他に、生涯の流れの中で運命を決定するような条件もあるのです。
それはたとえば必ずガンを発症する、離婚をする、横変死する、といったものです。

このような生まれつき持った人生上の条件を「因縁」と呼びます。

仏陀の法は、これらの「因縁」を断ち切ってヒトを自由にし、同時に最高の運命を創造する究極の力(成仏力)を修行者にもたらします。その究極の状態が「完全なる因縁解脱を成就する=仏陀になる」ことです。

胝観世音菩薩じゅんじがんぜおんぼさつJuntei Avalokitesvara Bodhisattva

准胝観世音菩薩じゅんじがんぜおんぼさつJuntei Avalokitesvara Bodhisattva

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准胝観世音菩薩(じゅんじがんぜおんぼさつ)は、仏教の菩薩の一人であり、智慧と慈悲を象徴する菩薩です。

准胝観世音菩薩は、梵語で Cundī」と呼ばれ、その名の通り、千の耳と千の目を持ち、全ての人々の悩みや苦しみを察知することができます。また、多くの手を持ち、人々を救うために必要なものを与えます。

准胝観世音菩薩は、中国や日本の仏教で特に信仰されており、多くの寺院や神社で祀られています。彼女の姿は、通常、優美な女性の姿で表され、手には蓮華や宝珠、瓶などを持っています。

准胝観世音菩薩は、人々の悩みや苦しみを解消し、慈悲と智慧を示すことによって、世界中の人々に希望と勇気を与える存在とされています。

凖諦観音の因縁   准胝観音 仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩

 

凖諦観音の因縁

 


仏像の作例
経典や儀軌には二臂、四臂、六臂、十八臂、五十四臂、八十四臂を説くが、日本では『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(唐・不空 訳)が広まり、そこで詳述された像容・一面三目十八臂とするものが最も多い。『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、四臂は赤色(蓮華部)、六臂は黄色(宝生部)、十八臂は白色(仏部)と述べられている。また、その手の本数が多いことから、その尊像は時に千手観音と混同される場合もあるが、正面の左右の二手が「説法印」 を結んでいるのが准胝観音で、「合掌」をしているのが千手観音である。なお、醍醐寺准胝観音坐像のように、蓮華座の下に難陀・跋難陀の眷属二大龍王がいる造例が多い。

 

 

禅と准胝観音

『無門関』第三則 【倶胝竪指】(ぐていじゅし)より
  • 倶胝和尚(ぐていおしょう)は禅における馬祖の法嗣の大梅禅法常三世の法孫にあたる。この人の正確な名前は伝わっていないが、准胝観音を一心に信仰し修行前も、修行をなし終えてからも准胝観音の真言を口ずさむのが常であったため、准胝観音の別名である「七倶胝仏母」から名前を取り、倶胝和尚と呼ばれた。この人が寺を構えてそこの住職をしていたところ、尼僧が旅姿のまま土足で上がり込んで来て問答を挑み、「あなたが悟りにかなった言葉を言えば笠を取りましょう」と迫ったが、倶胝和尚が何も答えられずにいると、尼僧は吐き捨てるようにして袖を払って出て行ってしまった。倶胝和尚は一山の住職がこれではと情けなくなり悔しさのあまり涙して寝たところ、「准胝法」の特徴の一つでもある夢告によって夢に神人が現れて、もうすぐこの寺に生きた菩薩が現れると告げられた。その十日後に天龍老師という人が現れて、その人にわけを話して教えを請うたところ、天龍老師はただ黙って指を一本立てられた。その指を見たとたんに、倶胝和尚は落雷に打たれたようになってしまい、瞬時に執着に固まっていた心の底が抜け、無上の覚りを得ることが出来た。
  • それ以来、倶胝和尚は生涯にわたって准胝観音の真言を唱えるかたわら、ただ指を立てるだけで弟子や信徒らを教化したとされている。この第三則の物語を編集者の無門慧開は、「覚りは指先のことではない、しかし、そこが分かれば皆が釈迦牟尼仏となることができる」と批評している。いわゆる中国では、説法印を正面で結んで指を立てる姿の准胝観音の仏像が好まれる理由の一つでもある。

また、明代には浙江省嘉善镸の出身である袁黄(1533-1606)という人物が、当時、占いの名人とされた孔先生に「三式」という運命学を学び、師の孔先生より科挙を受けることを勧められて合格すると共に、その番号までを言い当てられた。その後の占いも一字一句が孔先生の言う通りであり、すっかり宿命論者となっていた。自身の一生を占ってもらったところ相応の出世はするが前世の(カルマ)により壽命は53歳で、結婚はするが子供は無く、薄徳少福の身で失意のうちにその一生を終えると予言されていた。やがて、仏縁により禅密双修の禅僧の雲谷禅師に出会い自身の運命を語ったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法を授かり、正しく戒律を守り善行を積むための『功過格』による指導を受けたことによって運命の呪縛を脱した。壽命が尽きるとされた53歳の時に袁了凡(えんりょうぼん)と改名し、更に出世して高官となって交易と漁民に被害をなす倭寇を平定し、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍を退けた。准胝観音への信仰により願わずして子供にも恵まれ、その寿命も准提観音の延命の功徳と、『功過格』の積善の効果により74歳まで長生きすることができた。

 

准胝観音

仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩

准胝観音(じゅんていかんのん)とは?

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。

 

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益

修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。

 

空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

准胝観音(じゅんていかんのん)の像容

手は18本で3つ目の姿であることが多いです。中央の手は説法印と施無畏印をとります。また持ち物は武器や数珠、蓮華などを持っています。

 

大日如来 すべての生き物の根本となる仏

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

金剛界、胎蔵界の姿でそれぞれ印の形が違います。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で包みこむ智拳印の印相をしています。一方、胎蔵界の大日如来は、腹の前で両手の全指を伸ばして組み合わせる定印です。

勢至菩薩 偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)、梵名マハースターマプラープタ (महास्थामप्राप्त [mahāsthāmaprāpta])は、仏教における菩薩の一尊。「大勢至菩薩」、「大精進菩薩」、「得大勢菩薩」の別名がある。現在日本では年の守り本尊、十三仏一周忌本尊として知られている。三昧耶形は未敷蓮華(ハスの蕾)。種子(種子字)はサク(सः saḥ)。

 

 

勢至菩薩

偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)とは?

正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。

 

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

 

浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。

ご利益

智慧明瞭、家内安全、除災招福のご利益があるとされています。午年の人々を守る守護本尊であり、午年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるともいわれています。

勢至菩薩(せいしぼさつ)の像容

手を合わせているか水が入っている水瓶(すいびょう)を持っている姿が一般的です。

普賢菩薩 あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

 

 

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

名サマンタバドラ (Samanta bhadra) の「サマ 「タ」は「く」、「バドラ」は「賢」と漢訳しま す。 「賢」とは具体的には「さとりを求める心か 起こる、成仏しようとする願いと行ない」のこ とです。それが、ときとところを選ばず在して いるということを象徴したのがこの菩薩です。 で すから、菩薩行を実践する者をつねに守護するほ とけでもあります。

白象に乗り、文殊菩薩とともに釈迦如来 の脇侍をつとめます。 文殊菩薩のに対して、 (行)をつかさどります。

なお、密教では、堅固不壊の菩提心を象徴する

金剛薩埵と同体とします。

と巳年生まれの人の守り本尊とされていま

 

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

 

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

 

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

 

Bonji 梵字   准胝観音  七倶胝仏母  Cundī

 

准脈とは、梵名チュンディー(Cundi)の音写で 「清浄無垢」という意味があり、さとりの道を歩 ませる観音です。

別名、准胚仏母、七俱肢仏母とも呼ばれます。 七俱脈とは「無量」を意味しますから、多くの諸 仏の母となります。そのため観音菩薩ではないと の説もあります。経軌にも観音として説かれてい ないことから、天台密教では准賦如来として仏部 の尊としますが、真言密教では観音の一つとして 六観音の中に加えます。

求児・安産の本尊としてもまつられます。もと は水の神で、その姿は女身といわれています。」

准胝観音

仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩

准胝観音(じゅんていかんのん)とは?

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。

 

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益

修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。

 

空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

准胝観音(じゅんていかんのん)の像容

手は18本で3つ目の姿であることが多いです。中央の手は説法印と施無畏印をとります。また持ち物は武器や数珠、蓮華などを持っています。

有名寺院と像

・京都府:醍醐寺

准胝観音(じゅんていかんのん)の真言

オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

 

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  • 中阿含経・七宝

如来の七宝

迷いや悩みを超克した者のみが持つ、穏やかで平安な表情でした。心惹かれたシッダッタ太子 は、その沙門と直接お話をされ、出家を決意されたのです。

しんしゅつゆう

このできごとは、のちに四門出遊と名づけられました。お釈迦さまは、いわゆる生・老・ 病死の四苦を解決して、安心してこの世の中を生きていくようにしたいとお考えになって出家 されたのだといわれております。

もともと、お釈迦さまは偉大な素質を持っておられたわけですから、王位を嗣がれたならば転 輪王といわれるような偉大な王になられたでしょう。しかし、お釈迦さまはその偉大な素質を宗 教に向けて、仏教・仏法という人類を救うための偉大な教法を残されたわけです。

転輪王は手にするところの輪宝をもって、あらゆるものを打ち砕き、邪悪な軍隊を降伏せしめ ます。それに対して仏陀であるお釈迦さまは、教えと法によって一切の悪を退けました。 ですか お釈迦さまが教法を説かれることを、「法輪を転ずる(転法輪)」といいます。これは、転輪王 の輪宝に由来する言葉なのです。お釈迦さまが悟りを開かれて、いちばん最初の説法を「初転法 輪」といいます。最初の転法輪であるから、 「初転法輪」というのです。

また、名僧・高僧といわれる方が、お釈迦さまの教えを説く時も、法輪を転ずるといいます。 わたくしなどは名僧・高僧といわれるほどのものではありませんが、お釈迦さまのお説きになら れた「阿含経」を解説しているわけですから、法輪を転じているといえるかもしれません。

さて次にお釈迦さまは、 如来の七宝についてお話しになっておられます。 それでは、如来の七 宝とはどういうものでしょうか?

如是如来無所著等正觉出於世時。当 知亦有七覚支宝出於世間。 何為七。 念覚支宝。択法覚支。 精進覚支。 喜 覚支。 息覚支。 定覚支。捨覚支宝。 是謂為七。如来無所著等正觉出於世 時。当知有此七覺支宝出於世間。仏 説如是。彼諸比丘聞仏所説。歓喜奉 行

  • 現代語訳

中阿含経・七宝経

びく

によらい

むしょじやく とうしょうがくよ

「是の如く如来・無所等正覚世に出ずる時、当に

ねんかくしほう

ちゃくほうかくし しゃかくしほう

知るべし。赤、七覚支宝有りて世間に出ず。だが七と 為す。 覚支宝・法覚・精選覚・喜覚支

しょうじんかくし

そくかく

じょうかくし

・定覚支覚支宝、是れを謂いて七と為す。 如 無所著・等正覚世に出ずる時、当に知るべし。此の

覚支宝有りて世間に出ず」。 伝説の如し。彼の諸の

かんぎよう

比丘、仏の所説を聞きて奉行しぬ。

「同様に如来・無所著・等正覚がこの世に出現する時には、また七覚支(法という) 宝が、 この

世に出現するのです。その七覚支(法という) 宝はどういうものでしょうか?

覚支択法覚・精進覚支・喜覚支・息覚支・定覚支捨覚支の七つが、七覚支(法という)

不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

 

 

不動明王

破壊と再生を司り、悪を滅する

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

 

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ニルヴァーナを智慧と慈悲をめざす。

“Nirvana aims for wisdom and compassion.”