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ヒトを改造する技術 求閒持聪明法秘伝 3  駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system 3

 

驚きの発見!求聞持法の真実と明星の秘密”

 

 

1. 求聞持聡明法の修行には、東南西三方の開けた場所が最適で、東方のみでも悪くない。
2. 修行場所では、道場の東壁に小窓をつくり、虚空蔵菩薩の明星の光を取り込むことが重要。
3. 朝日や夕月の光を本尊にあてる意味もあり、小窓に絹を張り、黄色の種字を書くこともある。
4. 弘法大師空海はこの法で成功し、明星が現れる奇蹟を経験したとされている。
5. “明星来影す”とは結願の時、明星を拝むことで、修行の成功を示す。四方が暗く、明星が見えることが成就。
6. 修行者は自身の脳内で閃光を見ることが求聞持聡明法の真髄であり、明星の秘密。
7. 光が見えるようになると、大脳の記憶の座が自在に操れ、奇蹟的な力が現れる。
8. 求聞持法の秘密は大空を見るのではなく、修行者自身の脳の奥にある。
9. 口伝や秘伝は修行者に真実を示すために、隠された表現やナゾが含まれており、修行者の努力が重要。
10. 導師は秘密技術をストレートに教えない理由は、それを直接伝えても弟子が身につかないからである。

 

 

 

此の法を修行するのには、東南西三方の開けたところを最上とする。但し、

東方のみでも悪くはない。修行する場所 道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵菩薩の化現である明星 (金星)の光を道場にさし入れるためである。また、朝日、夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を 張り、黄色の種字(虚空蔵菩薩という仏のシンボルの文字)を書いて、そこか 明星の光を透して本尊にあてるためでもある」

とまず場所を制定し、つぎに、明星を凝視しつつ、さだめられた本尊 (虚空蔵菩薩の印明(真言と印契)を一〇〇万べん、五〇日あるいは一〇〇日 読誦するのであるが、日蝕または月触の時に結願(完了) するように開白(はじめること)しなければならぬ、とある。

そして、弘法大師空海は、この法の成功した自分の体験を、つぎのように

 

明星

明星来す。云々

来す。云々

 

阿国大滝のにのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。 谷響をおしまず、

つまり、自分は阿波の国の大滝が岳という山にのぼり、土佐の室戸岬でこ の修行にはげんだところ、最終の日に、谷はこだまし、明星があらわれるな 法に伝えられている通りの奇瑞(不思議な現象)があらわれ、法が成就 した、というのである。 

この文章中、明星来影す”

明星来す。云々

 

、求聞持聡明法が成就したという 意味で、それは、求聞持聡明法の秘伝に、こう伝えられているところによる のである。

「明星来影すとは、結願(修行の完了)の時に、香に火を置き、 明星を拝 するに、四方が暗く明星が見えねば悉地成就(修行が成功したこと)ではない。 暗くても星が現すれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現すれば中 天になく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜれば成ぜざるなり」

とあり、さらに、星の現われかたも修行者の身近であるほどよいとされる。最もよいのは天気晴朗、明星が修行者の眼前に遊してくれば最上の成就とされるのである。 弘法大師空海の場合は、結願の日、天気晴朗にして、 宝剣、 いずれからともなく忽然と座の前に落ち、明星飛んで口に入って悉地成就の


相を現じたと伝えられる。

以上が、求聞持聡明法成就に関する口伝であり、秘伝なのである。したが って、修行者はこれを目標に必死に修行を重ねる。そして失望する。当 然なのだ。なぜならば、この秘伝が間違っているのだ。

こういう口伝や秘伝を頼りにいくら修行しても、気の毒だが求聞持法は成 就しない。まるっきり違うのだ。どう違うのか?

明星とは、現実の明星ではないのである。 はるか彼方の空間にきらめく明 星ではないのだ。それは、なんと! 修行者自身の脳の内部にまたたく閃光 なのだ。

私の体験を語ろう。

「ああっ!」

私は三度目の必死の修行に入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニン

グのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古代ヨ ガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘伝から私が創案した特殊な印契 とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質と脳髄は、 微妙な変化を起こしつつあることが感じられていた。 チャクラの開発も順調 にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

夜明けなさい まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。 しびれの 感覚であった。 かるい失神、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その 刹那、

と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流が流れる感覚が走った。

落雷かと感じ、瞼の裏を紫電が走った。つぎの瞬間、眼前でフラッシュをた かれたように、私の視野は真っ暗になった。 失明! という考えがチラリと

脳裡をよぎった。と、そのときであった。頭の内奥、深部に、ポッカリと明されるのである。 弘法大師空海の場合は、結願の日、天気晴朗にして、 宝剣、 いずれからともなく忽然と座の前に落ち、明星飛んで口に入って悉地成就の

相を現じたと伝えられる。

以上が、求聞持聡明法成就に関する口伝であり、秘伝なのである。したが って、修行者はこれを目標に必死に修行を重ねる。そして失望する。当 然なのだ。なぜならば、この秘伝が間違っているのだ。

こういう口伝や秘伝を頼りにいくら修行しても、気の毒だが求聞持法は成 就しない。まるっきり違うのだ。どう違うのか?

明星とは、現実の明星ではないのである。 はるか彼方の空間にきらめく明 星ではないのだ。それは、なんと! 修行者自身の脳の内部にまたたく閃光 なのだ。

私の体験を語ろう。

「ああっ!」

私は三度目の必死の修行に入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニン

グのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古代ヨ ガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘伝から私が創案した特殊な印契 とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質と脳髄は、 微妙な変化を起こしつつあることが感じられていた。 チャクラの開発も順調 にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

夜明けなさい まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。 しびれの 感覚であった。 かるい失神、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その 刹那、

と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流が流れる感覚が走った。

落雷かと感じ、瞼の裏を紫電が走った。つぎの瞬間、眼前でフラッシュをた かれたように、私の視野は真っ暗になった。 失明! という考えがチラリと

脳裡をよぎった。と、そのときであった。頭の内奥、深部に、ポッカリと明

「そうか!」

かりがともったのだ。 そして、それは、私の脈搏とおなじリズムで、 しずか にしずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる一〇〇日前、 山にこもって凝っと見つめたあのときの明星 暁けの明星のように、それ はつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

私は力いっぱい膝をたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

明星とは現実の明星ではなかったのである。

大脳の或る部分を或る方法で刺激すると、目の前に光が見えるようになる のである。その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を 記憶の座に向けて沈静させると、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色にな って、しずかに眼の奥でまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるの である。

これが明星なのだ!

或る特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)への 刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目を或る角度に向けると、目 開いていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。

この光が見えるようになると、大脳の記憶の座が自由にあやつれるように なるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力が出てくる。 す なわち、 求聞持聡明法の成就である。

これが、求聞持法、明星の秘密である。 大空を一〇〇年ながめて空中の明 星を見つめていてもムダだ。 明星はわが大脳の奥にあるのだから。

このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてつかんだ秘密である。 私以外にこれを知る者はついになかった。 求聞持法の秘密を私はついにつか んだ。私はそれを誇りに思う。

私は先に、求聞持聡明法の口伝は間違っていると言った。しかし、この口

伝は決して間違っていたのではなかったのである。修行が成就すればたしか

ヒトを改造する技術

  • 求開持聪明法秘伝

 

「そうか!」

かりがともったのだ。 そして、それは、私の脈搏とおなじリズムで、 しずか にしずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる一〇〇日前、 山にこもって凝っと見つめたあのときの明星 暁けの明星のように、それ はつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

私は力いっぱい膝をたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

明星とは現実の明星ではなかったのである。

大脳の或る部分を或る方法で刺激すると、目の前に光が見えるようになる のである。その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を 記憶の座に向けて沈静させると、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色にな って、しずかに眼の奥でまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるの である。

これが明星なのだ!

或る特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)への 刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目を或る角度に向けると、目 開いていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。

この光が見えるようになると、大脳の記憶の座が自由にあやつれるように なるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力が出てくる。 す なわち、 求聞持聡明法の成就である。

これが、求聞持法、明星の秘密である。 大空を一〇〇年ながめて空中の明 星を見つめていてもムダだ。 明星はわが大脳の奥にあるのだから。

このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてつかんだ秘密である。 私以外にこれを知る者はついになかった。 求聞持法の秘密を私はついにつか んだ。私はそれを誇りに思う。

私は先に、求聞持聡明法の口伝は間違っていると言った。しかし、この口

伝は決して間違っていたのではなかったのである。修行が成就すればたしかにはなれないのだ。

同じことである。

に明星は眼前に現われるのである。ただし、それが頭の深奥に現われるのだ ということは、修行者自身が心血を注ぐ努力、工夫をしてつかまねばならぬ 秘密なのである。その秘密が解けない修行者は、失格なのだ。 つまり、天才

密教の秘伝とか、口伝というものは、つねにこのような表現で真実を現わ (あるいは隠しているのである。その隠されたナゾ解きが、密教の「修 「行」というものなのである。 法を成就した導師は、決してそれを素直に表現 して教えようとはしない。 それは決して意地悪や不親切なのではないのであ る。ストレートに密教の秘密の技術を出してしまったのでは、その秘密技術 を弟子は身につけることができないのである。 それを身につける力が生じな いからである。

禅宗には、「公案」がある。一つの公案のナゾ解き (悟り)に何年も、時 には何十年も心血を注ぐ。 ナゾを解くことはもちろん大切でありそれが目的 だが、ナゾを解く過程の努力が、その修行者に力をつけるのである。 それと

それにしても、明星が眼前を「遊曵する」とはなんという巧みな比喩であ ろうか。空海の場合には、「明星が飛んで口の中に入った」という。法が成 就して、その秘密を身を以て体験した者には、「なあんだ」といおうか、「な るほど」といおうか、拍子抜けするような感じであるが、真剣になって、虚 空はるかにまたたく金星をなんとか目の前に遊させようと必死になり、時 には口の中に飛びこませようと大きな口をあけて待った無数の修行者を考え ると、おかしくもあり、気の毒でもあるという思いである。私はこれをもと にして、私の「求聞持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などと いうアイマイなものではない。 生化学と生理学をもとにした「技術」であり、 システムである。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでも効果を得られる技術である。

 

本来ならば、こういうことは、私の「大極秘伝」として、ごく限られた者 だけに、ひそかに伝えてゆくべきものなのだろう。だが、私は、敢えて、れをひろく公開する。 なぜならば、私は、世界中の人びとが、この法によっ 知能を高め、いっさいの愚行 殺し合い、奪い合い、傷つけ合い、憎み

合いから、離れ去ってほしいからである。

人類のすべての不幸の原因はただ一つ。愚かだからである。

求聞持聡明法は、ヒトの知能を三倍にする。

しかし、その半分でもよい。 人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍 したら、この世界から、犯罪も戦争もいっさいなくなるだろう。そうい うものがあるのは、人類が愚かだからだ。 求聞持法によって知能指数が倍加 したら、そういうことがいかに愚かで馬鹿馬鹿しいことか、大人が子供のケ ンカが馬鹿馬鹿しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。

私や私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、 それがなにになろう。 世界の大勢にどれほどの影響があろう。よしんば私が、 この法によって、古今無比の大聖者と仰がれる程の力を持とうとも、世界の どこかで、権力をにぎっている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押した

ら、それっきりなのである。 世界中はふっ飛んでしまう。 古今無比の大聖者 もいっしょに!

まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、 安全な ところに待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の 灰に汚染されて、半死半生の者ばかりという世の中に、自分とごく少数の一 族だけが生き残ってなにになろう。 ノアの方舟の時とは状況がまったくちが うのである。

このままでは、必ず世界は崩壊する。 人類の大愚行はぜったいに止めさせ なければならぬ。そのために私は、この求聞持聡明法を、世界中にひろめね

ばならぬのである。密教・超能力の秘密』より)

 

writing.

The best place to practice this Dharma is an open area on three sides, east and southwest. however,

It’s not bad even if it’s just Touhou. Place for training Create a small window on the east wall of the dojo. This is to let the light of Myojo (Venus), the incarnation of Kokuzo Bodhisattva, shine into the dojo.

Shuni

be. There is also the idea of letting the light of the morning sun and evening moon shine on the principal image, or by covering a small window with silk and writing yellow seed characters (characters representing the symbol of the Buddha, Kokuzo Bodhisattva), allowing the light of the morning star to shine through. It is also to dedicate it to the principal image.”

First, establish a place, and then, while gazing at the morning star, recite the enshrined principal image (Kokuzo Bodhisattva’s inmei (mantra and seal) for 1,000,000 days, 50 or 100 days. However, it is said that one must open the prayer (completion) at the time of a solar eclipse or lunar eclipse.

Then, Kobo Daishi Kukai described his own successful experience with this method as follows:

 

The morning star is coming. Things like that

tree

He climbs up the Okuni Otaki waterfall and works hard at Toshu Muroto no Saki. Don’t let Tanihiro down,

In other words, I climbed a mountain called Ōtakigadake in Awa Province and engaged in this training at Cape Muroto in Tosa, and on the last day, the valley echoed and a morning star appeared. It is said that the miracle (mysterious phenomenon) of the street appeared and the law was fulfilled. Being teased

In this passage, the phrase “Myojo Raiseisu” means that Gumonjisoteiho was fulfilled, and this is what is said in the secret of Gumonjisoteiho.

“To see the shadow of the morning star” means to light incense and worship the morning star at the time of prayer (completion of training), but if it is dark on all sides and the morning star cannot be seen, it is not complete fulfillment (the training has been successful).It is dark. If a star appears on all sides, it is a fulfillment of vulgarity; if it is a little clear on all sides and a star appears, it is not in the middle of the sky, but if it is completely clear and a star appears, it is a fulfillment; even if it is clear on all sides, a star appears.

If you do, it won’t happen.”

Furthermore, it is said that the closer the star appears to the practitioner, the better. The best thing is when the weather is clear and the star shines in front of the practitioner’s eyes, which is considered the greatest accomplishment. In the case of Kobo Daishi Kukai, on the day of his wish, the weather was clear and sunny, his treasured sword suddenly fell in front of his throne, and the star flew into his mouth, and he was said to have achieved complete fulfillment.

It is said that he has appeared.

The above is an oral tradition and a secret regarding the fulfillment of the Law of Gumonji and Sage. Therefore, practitioners train desperately to achieve this goal. And disappointed. Of course. Because this secret is wrong.

No matter how much you practice relying on such oral traditions and secrets, you will never be able to achieve the Gumonjiho method. It’s completely different. What’s the difference?

The morning star is not an actual morning star. It is not a bright star twinkling in a faraway space. It’s amazing! It’s a flash of light that flashes inside the brain of the practitioner himself.

Let me tell you about my experience.

“Ah!”

I was on my third desperate training.

It was almost the 100th day, the 100th training in my legal system.

It was at the time of Through training using the nine types of inmei of Gyomonjiho passed down in the Shingon sect, special breathing techniques passed down in ancient yoga, and special inji and poses that I created from the secrets of ancient yoga, I It was felt that subtle changes were occurring in his body, cerebral cortex and brain spinal cord. Chakra development was also progressing smoothly. My six senses knew that the time was ripe.

Dawn! It felt like I was in a slumber. But it wasn’t sleepy. It was a feeling of numbness. It was similar to faint fainting and dizziness. It was a moment of forgetfulness. That moment,

I was screaming in pain. I felt a current flowing through a corner of my brain.

It felt like lightning, and purple electricity ran behind my eyelids. The next moment, my field of vision went black, as if a flash had been fired right in front of my eyes. A glimmer of the thought of going blind!

It crossed my mind. That was then. It will suddenly become clear to you, deep inside your head. In the case of Kobo Daishi Kukai, on the day of his wish, the weather was clear and sunny, his treasured sword suddenly fell in front of his throne, and the star flew into his mouth, and he was said to have achieved complete fulfillment.

It is said that he has appeared.

The above is an oral tradition and a secret regarding the fulfillment of the Law of Gumonji and Sage. Therefore, practitioners train desperately to achieve this goal. And disappointed. Of course. Because this secret is wrong.

No matter how much you practice relying on such oral traditions and secrets, you will never be able to achieve the Gumonjiho method. It’s completely different. What’s the difference?

The morning star is not an actual morning star. It is not a bright star twinkling in a faraway space. It’s amazing! It’s a flash of light that flashes inside the brain of the practitioner himself.

Let me tell you about my experience.

“Ah!”

I was on my third desperate training.

It was almost the 100th day, the 100th training in my legal system.

It was at the time of Through training using the nine types of inmei of Gyomonjiho passed down in the Shingon sect, special breathing techniques passed down in ancient yoga, and special inji and poses that I created from the secrets of ancient yoga, I It was felt that subtle changes were occurring in his body, cerebral cortex and brain spinal cord. Chakra development was also progressing smoothly. My six senses knew that the time was ripe.

Dawn! It felt like I was in a slumber. But it wasn’t sleepy. It was a feeling of numbness. It was similar to faint fainting and dizziness. It was a moment of forgetfulness. That moment,

I was screaming in pain. I felt a current flowing through a corner of my brain.

It felt like lightning, and purple electricity ran behind my eyelids. The next moment, my field of vision went black, as if a flash had been fired right in front of my eyes. A glimmer of the thought of going blind!

It crossed my mind. That was then. Deep inside my head, there is a sudden brightness.

“Really!”

A light was lit. Then, it began to beat again and again, in the same rhythm as my heartbeat. It twinkled with a cold, yellowish whiteness, just like the dawn star that I had gazed upon while holed up in the mountains 100 days before I began this practice.

I patted my knee as hard as I could.

“I see! This was the morning star!”

I looked up and screamed. I finally discovered the secret of the star!

The morning star was not a real morning star.

If you stimulate a certain part of your brain in a certain way, you will be able to see light in front of your eyes. The light appears to be of various shapes, colors, and sizes, but when you turn your attention to the seat of memory and calm down, it turns into a cold, slightly yellowish silver color, and silently shines again in the back of your eyes. Taku. It looks exactly like a morning star.

This is the star!

Through some special training, stimulation of this area (around the hypothalamus of the brain) causes light to appear in the eyes. If you turn your eyes at a certain angle, whether your eyes are open or closed, you will see a flash of light floating in your eyes.

When he becomes able to see this light, he not only becomes able to freely manipulate the memory seat of his cerebrum, but also a variety of powers that can only be considered miraculous emerge. In other words, it is the fulfillment of the law of seeking wisdom.

This is the secret of Gumonjiho and Myojo. There is no point in staring at the sky for 100 years, staring at the morning star in the sky. Because the morning star is deep within my cerebrum.

This is the first secret I have discovered in the 5,000 year history of Esoteric Buddhism. In the end, no one else knew this except me. I finally grasped the secret of Gumonjiho. I’m proud of it.

I said earlier that the oral tradition of Gumon Jisomeiho is wrong. But this mouth

The legend was never wrong. It is true if the training is successful

Technology to modify humans

The secret of seeking enlightenment and enlightenment

Miyakuhoku

“Really!”

A light was lit. Then, it began to beat again and again, in the same rhythm as my heartbeat. It twinkled with a cold, yellowish whiteness, just like the dawn star that I had gazed upon while holed up in the mountains 100 days before I began this practice.

I patted my knee as hard as I could.

“I see! This was the morning star!”

I looked up and screamed. I finally discovered the secret of the star!

The morning star was not a real morning star.

If you stimulate a certain part of your brain in a certain way, you will be able to see light in front of your eyes. The light appears to be of various shapes, colors, and sizes, but when you turn your attention to the seat of memory and calm down, it turns into a cold, slightly yellowish silver color, and silently shines again in the back of your eyes. Taku. It looks exactly like a morning star.

This is the star!

Through some special training, stimulation of this area (around the hypothalamus of the brain) causes light to appear in the eyes. If you turn your eyes at a certain angle, whether your eyes are open or closed, you will see a flash of light floating in your eyes.

When he becomes able to see this light, he not only becomes able to freely manipulate the memory seat of his cerebrum, but also a variety of powers that can only be considered miraculous emerge. In other words, it is the fulfillment of the law of seeking wisdom.

This is the secret of Gumonjiho and Myojo. There is no point in staring at the sky for 100 years, staring at the morning star in the sky. Because the morning star is deep within my cerebrum.

This is the first secret I have discovered in the 5,000 year history of Esoteric Buddhism. In the end, no one else knew this except me. I finally grasped the secret of Gumonjiho. I’m proud of it.

I said earlier that the oral tradition of Gumon Jisomeiho is wrong. But this mouth

The legend was never wrong. If you complete your training, you cannot become one.

It’s the same thing.

The morning star will appear before your eyes. However, the fact that he appears in the depths of one’s mind is a secret that the practitioner must put his whole heart and soul into and use his ingenuity to grasp. A practitioner who cannot solve the secret is disqualified. In other words, genius

Esoteric Buddhism’s secret teachings and oral traditions always reveal (or hide) the truth using expressions like this.The unraveling of these hidden mysteries is the “practice” of Esoteric Buddhism. Successful masters never try to teach by expressing it honestly. This is not because they are mean or unkind. If they give out the secret techniques of esoteric Buddhism straight away, they will never try to teach. Disciples cannot acquire this because they do not have the strength to acquire it.

In Zen Buddhism, there are “koans.” People spend years, even decades, pouring their heart and soul into solving the mystery (enlightenment) of a single koan. Solving the riddles is of course important and the goal, but the effort in the process of solving the riddles gives the practitioner strength. And with that

In any case, what a clever metaphor it is to say that the morning star is “towing” right in front of our eyes. In Kukai’s case, “Myojo flew into his mouth.” For those who have experienced the Dharma’s fulfillment and its secrets firsthand, they may say, “Wow!” or “I see!”, but when they become serious, they realize that the sky is far away. When I think of the countless practitioners who desperately tried to get the twinkling Venus to play in front of their eyes, sometimes with their mouths wide open in hopes of letting it fly into their mouths, it was both strange and pitiful. I believe that there is. Based on this, I organized my “Gumonjisōmeiho.” This is not what he calls the “law” of the past. It is a “technology” and a system based on biochemistry and physiology. It is a technique that anyone can benefit from if trained with the right guidance.

 

Normally, this would be something that I should secretly tell only a very limited number of people as my “big secret”. However, I dare to publish it widely. Because I want people all over the world to use this law to increase their intelligence and avoid all foolishness, killing, robbing, hurting, and hating each other.

Let’s go away from each other

 

 

 

 

1. “仏教の秘密修行法を覗いてみよう:明星とは一体何か?”
2. “驚きの発見!求聞持法の真実と明星の秘密”

3. “仏教の奥深さに迫る:明星修行で自らの内なる光を見つめる”

 

心の迷宮を解く:ソンディの実践心理学の旅」

心の迷宮を解く:ソンディの実践心理学の旅」

 

 

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  • レオポルド・ソンディは、1893年、当時のハンガリー領(現チェコスロハキヤ領)のニイトラという町で生まれる。父はユダヤハンガリー人で、靴加工職人であった。彼は12人の同胞中、第12子で、かつ後妻の子であった。4歳の時、プタペストにいる異母兄にひきとられ成育した。その後1944年にナチのユダヤ追放の悲運に会うまでの47年間は、この地にあり、教育もこの地で受けたが、幼少時代からの貧困で複雑な家庭環境は、とりわけ異母兄夫婦のいさかいを見るにつけ、彼をして家族の問題に過敏にさせる素地を形成していった。
  • 1911年に高校を卒業と同時に、医科進学のための国家試験に合格。1919年ブタペスト大学医学部より学位を取得している。
  • 大戦後は、プタペスト大学のランシュブルグ教授が主宰する実験心理学研究所の助手にもなり、記憶実験や知能測定の実際を学んだ。最初の公刊論文は、この助手時代の成果である『欠陥知能』であった。
  • 1927年、プタベストの治療教育大学の精神病理学教室の講師に任ぜられ、同時に精神療法クリニックの医長も兼務し、1941年、ナチの追害による公職追放にあうまで、この地位にあった。この14年間は、ハンガリー時代における精神科医としての、もっとも充実した活動の期間でもあった。ことに精神薄弱児の治療と教育に関連しての体質学への関心は、遺伝学への興味となり、ミュンヘン大学のルーディン一派の家系研究に傾倒した。やがて無意識の遺伝学として、配偶者選択や職業選択のあり方に注目させ、ソンディをして生涯のテーマである運命分析学の臨床家たらしめることになった。

 

 

1. ソンディはフロイトの精神分析の本質である「無意識の抑圧と防衛の力動過程」の構造を,思考や観念ではなく目に見える形で表現する選択テストを創案すると同時に,その理論として衝動の選択心理学を創始した.そして,その認識方法を,精神の治療面と診断面で実用化する衝動病理学,衝動診断学を展開し,それによって思考精神医学の退路を遮断,実用精神医学への道を開いた.選択は運命であるゆえ,それは運命分析へと発展したのである.

2. フロイトがいろいろな局面で言及し,立ち止まらざるを得なかった原因,つまり分析を困難ならしめる「素因的なもの」というのは,「いろいろな無意識層のうち特に祖先から伝わり現在その個人の精神に成り変わって自演している厄介な衝動の振る舞い」にほかならなかった.これはソンディ心理学において8個の遺伝子記号の様態で表現される.この「遺伝子の力動過程」を,構造的に視覚化する方法,およびその認識を治療面で実用する運命分析療法を創始し,「終わりなき分析」を終結させる方法を完成した.

要約すれば,ソンディは,フロィトが1905年以来,本能と明確に区別して追求した「衝動 1)」のふるまいを研究し,次のような衝動学の全体系を完成させたのである.

衝動心理学——–「衝動ファクタ・ペクタの心理学」および「実験的症候群論」
衝動測定学——–「ソンディ・テスト」器具,方法,一般的解釈法
衝動診断学——–「実験衝動診断学」および「リンネ式表」,特別な解釈法
衝動病理学——–「衝動病理学A,B」および「自我分析」
衝動分析学——–「運命分析」
衝動治療学——–「運命分析療法」
彼が,多くの流派に分裂した深層心理学を統一しようと考えていたことは,フロイトの真の後継者として当然であった.彼が深層心理学研究の主流と考えた無意識の層は,フロイトの個人的無意識,ユングの集合的無意識,そして彼自身の家族的無意識の3つの層である.

それゆえ,ソンディ・テストの結果得られる前景・理論背景・実験背景の3つの人格プロフィルは,それぞれの無意識層が表現される.すなわち

精神分析的解釈(S.Freud)
象徴分析的解釈(C.G.Jung)
運命分析的解釈(L.Szondi)
の3通りの解釈が同時に実現し,了解され,説明される構造になっている.

本書は,ソンディがフロイトの遺言を完全に引き受け,延長し,無意識の遺伝学と診断・治療学を完成した事実と方法を,心理学徒やカウンセリングを学ぶ人にとって,すぐ役に立つ実用的な形で記載したものである.原稿を書くにあたって先人の訳業も充分に活用したが,重要部分は必ず原著に当たるとともに,ソンディに会って直接確かめた事項に基づき,新たな解釈を付け加えた部分も多い.

本書の各項にちりばめられているソンディの学説は,以下にあげる主要原著から得られたものである.

「運命分析」(1944,1948,1964)
「ソンディテスト」(1946)
「衝動病理学A,B」(1951)
「自我分析」(1956)
「衝動リンネ式表」(1960)
「実験衝動診断法」(1960)
「運命分析療法」(1963)
「衝動統合を失った人々」(1979)

おそるべき運命の反覆 家庭の崩壊は社会の崩壊 A terrible reversal of fate The collapse of the family is the collapse of society

このフロイトの理論のなかのさまざまな影響と暗示のなかに、リボット・ソン デイのいう「特殊な祖先の欲求」 つまり、霊障のホトケによる抑圧があるとわたくし は考えるのである。その結果、子供のこころの深奥に、抑圧や葛藤、そして精神外傷 が生ずる。あるいは、抑圧や葛藤や精神外傷を避けて、こころの深奥(無意識の中) に逃げこんでしまう場合もある。しかし、これらのものは、そこにいつまでもじっと おとなしくひそんでいるということはない。 表面に出る機会をつねにうかがっている のである。 子供自体はもちろんのこと、おとなになってからも、かれはそれらのこと なにも思い出せないし、気づきもしない。 しかし、かれが気づかなくても、それら はかれの行動にたえず影響をおよぼし、かれを動かしているのである。

つまり、ヒューストン・リードの人生は、子供のころから、つねに、この抑圧と 藤の谷間をさまよいつづけていたといってもよいであろう。

かれの六十年の人生は、夢遊病者のそれとそうちがいのないものであって、ほんと うの人生はいまはじまったのだとわたくしがいったのは、このためなのである。

ヒューストン氏は幸いにしてそこから脱出することができた。守護仏によって救い 出されたのである。

しかし、こういう抑圧と葛藤の暗い谷間を、苦しみながらさまよいつづけている不 幸な人びとが、じつに多くいるのである。あなたの周囲にも、かならず何人かいるは ずである。いや、あなた自身がそうであるかも知れない。そういう不幸なひとたちは どうしたらいいのか?

おそるべき運命の反覆”

こういうひとたちの苦しみは、そうでないひとたちにはまったく不可解なものであ るといってよい。とうてい理解できないであろう。

その内面世界はつねに暗鬱であり、絶望感に覆われている。得意の知れない焦燥感 にかられてつねにいらいらしている。 これという理由もなしに、突然、すさまじい怨 の情やの念にかりたてられたり、一転して悲しみのどん底にたたき落とされたりする。そうかと思うとまた一転して、手のつけられないような様の状態になったり する。 それでいてかれらは決して精神病者ではないのである。

その特徴はすべてに衝動的である。考慮するということが、ないのではない。 しか しすぐに衝動がそれをうち消す。

そういう抑圧と葛藤からのがれるために、アルコールに走ることが多い。最近は、 シンナーや麻薬が多いようである。また、暴力行為、犯罪行為に奔るものもすくなく ない。

そこまでいかないにしても、大なり小なりこういう精神負担を背負っている人間 が、平穏無事な人生をあゆむことができないのは当然であろう。

そのなかには、卓抜した才能や、すぐれた素質を持ったひともすくなからずいる。 そういうひとほど、つきあげてくる衝動や抑圧とたたかうために、葛藤がひどく、自 暴自棄になって、性格破綻者のようになってしまいやすい。しかし、どうしてそうな るのか。自分自身も周囲のものも、まったくわからないのである。 精神科の医師の診 断をうけても、精神病ではないという診断がくだされる。精神病的ではあっても、精神病者ではないから、治療の方法がないのである。せいぜい精神安定剤をあたえるく らいであるが、そういうもので安定は得られない。いよいよ病気になっていくくらい がオチである。

本人はもとよりだが、その巻きぞえになる家族たちの苦しみも、想像以上のものが ある。一家心中を考えた家族たちもかぞえきれないくらいである。

卓抜した意志の力や、人なみすぐれた才能により、なんとか、ある程度、抑圧や葛 制御できるひとも、ごく稀れにはあるが、そういうひとたちにしても、不幸、 不 運悲惨な人生をまぬがれることはむずかしい。

精神的なものはなんとか抑制できたとしても、ソンディ理論のいう“運命の反覆” からのがれることができないからである。 霊障のホトケがたどった悲惨な運命を、無 意識のうちにたどってしまうからである。

その無気味なおそろしさを、ソンデイ自身が語っているではないか。悲惨な異母兄 の運命を、かれ自身、知らぬうちにたどりはじめていたのである。天才的なかれの知 能が、その運命の反覆を断ち切った。これは、とうてい常人のできることではない。

 

おそらくは、異母兄の霊障が、あまり強くなかったのではないかと思われる。 つよい 怨念の霊障であったら、いかなソンディ博士にしても、そうかんたんに消滅させるこ とはできなかったであろう。

この異母兄の霊障は、怨恨のそれではなく、 悔恨からきたものだったと思われる。 つよい怨恨の霊障は、守護仏と、それによる成仏法でないかぎり、 ぜったいといって いいほど、消滅できないものなのである。

なお、ちなみに、ヒューストン・リード氏の霊障は、三代ほど前の縁者で、横変死 し、生前、強度のアル中だったと思われるホトケであった。氏は、もう少しというと ころで、このホトケ”運命の反覆からのがれたのである。 幸いのことであった が、しかし、こういう不幸からのがれられないひとびとが、どれだけ多くいるであろ うか。それはもう、無数といっていいほどである。しかも、それは、日に日にふえつ つあるように思われるのである。

おそろしいのは、とくに、子供や若ものたちのあいだに急速にふえつつあることで ある。これはもう、大きな社会問題であるというべきではないか。

家庭の崩壊は社会の崩壊

このままでは、かくじつにこの社会は崩壊するだろう。

霊障という特殊な抑圧と葛藤を、深層意識の奥ふかく持つ子供と若ものが急激にふ え、そういう子供と若ものをかかえて、崩壊に瀕している家庭が急速にふえつつある のである。あいつぐ家庭の崩壊は、そのまま、社会の崩壊につながるのである。 わたくしたちは、至急、この対策を講じなければならない。

七、八年前から、わたくしは、子供たちのあいだ (大人もふくめて)に「横変死の 因縁」「刑獄の因縁」が急激に増加しつつあることを、講演に、著書に、訴え、かつ、 注意をうながしてきた。

また、五年前、エイズという聞きなれない病気が発表されたとき、わたくしは、霊 をして、この病気は「横変死の因縁」からくるもので、 霊障をともなう病気であ り、いまは表面おさまるが、二、三年後にふたたび社会の表面に出てきたときには、

 

Among the various influences and allusions in Freud’s theory, I believe that there is what Libot Sondei called the “special ancestral need,” that is, the repression caused by the psychic disorder. The result is repression, conflict, and trauma in the depths of the child’s psyche. Or they may escape into the depths of the mind (into the unconscious), avoiding repression, conflict, and trauma. But these things do not linger there forever in her meekness. She is always on the lookout for an opportunity to come to the surface. Even as an adult, let alone as a child, he cannot remember or notice any of these things. But even if he is unaware of it, they continue to influence and motivate his actions.

In other words, it can be said that Houston Reid’s life has been constantly wandering in this valley of oppression and wisteria ever since he was a child.

His sixty years of life were not much different from those of a sleepwalker, and this is why I said that his life really began now.

Mr. Houston was fortunate enough to escape from there. He was rescued by the Guardian Buddha.

But there are so many unhappy people who continue to suffer and wander through the dark valleys of oppression and conflict. There must be some people around you. Or maybe you yourself are. What should he do with those unfortunate people?

A terrible reversal of fate”

The suffering of such people is utterly incomprehensible to those who are not. You will never understand.

His inner world is always gloomy and covered with despair. I’m always irritated by a feeling of impatience that I don’t know what I’m good at. For no particular reason, I was suddenly spurred on by a terrifying feeling of resentment, or suddenly plunged into the depths of sorrow. When I think about it, it turns around again and becomes a situation where I can’t handle it. And yet they are by no means psychopaths.

Its characteristics are all impulsive. It is not that there is nothing to consider. Only he does and the urge quickly overpowers it.

In order to escape from such oppression and conflict, I often turn to alcohol. Recently, it seems that there are many thinners and drugs. In addition, there are many cases of violent and criminal acts.

Even if it doesn’t go that far, it’s only natural that people who carry such mental burdens, to a greater or lesser degree, can’t lead a peaceful life.

Among them, there are not a few people with outstanding talent and excellent qualities. Such people are more likely to become conflicted, desperate, and character-destroyed as they struggle with the urges and repressions that arise. But why is he like that? They are completely unaware of themselves and their surroundings. Even if you are diagnosed by a psychiatrist, you will be diagnosed as not having a mental illness. Even if they are psychotic, they are not psychopaths, so there is no cure. The best he can do is to give him tranquilizers, but they do not give him stability. The point is that you will eventually fall ill.

Not to mention the person himself, but the suffering of the family members who are involved in it is more than you can imagine. There are too many families who have considered family suicides.

There are very few people who can manage to some degree of repression and conflict through their outstanding willpower and extraordinary talent, but even such people can avoid misfortune and misfortune in their lives. It is difficult.

This is because, even if we manage to suppress the mental, we cannot escape from the “reversal of fate” that Sondy theory calls. This is because you will unconsciously follow the tragic fate of the psychic hotoke.

Isn’t Sondei himself talking about that eerie horror? Unknowingly, he had begun to trace the fate of his tragic half-brother. His genius intellect cut off that reversal of fate. This is not something that ordinary people can do.

 

It is thought that perhaps his half-brother’s mental disorder was not very strong. If it had been a strong grudge, even Dr. Sondy would not have been able to extinguish him so easily.

It is believed that this half-brother’s mental disorder was not due to resentment, but to remorse. The spiritual hindrance of strong resentment cannot be extinguished unless there is a guardian Buddha and a method of attaining Buddhahood through it.

By the way, Mr. Houston Reed’s psychiatric disorder was a relative about three generations ago, who died of a sudden accident and was believed to have been a severe alcoholic during his lifetime. He almost escaped from this reversal of fate. Well, there are already an infinite number of them, and they seem to be increasing day by day.

What is frightening is his rapid rise, especially among children and young people. Shouldn’t this be a big social problem?

The collapse of the family is the collapse of society

If things go on like this, society will eventually collapse.

There is a rapid increase in the number of children and young people who are deeply conscious of the special oppression and conflict of spiritual disorder, and the number of families on the verge of collapse is rapidly increasing with such children and young people. . The collapse of one family after another leads directly to the collapse of society. We must urgently take this measure.

For the past seven or eight years, I have been making a point in my lectures and writings about the rapid increase in the number of children (including adults) who are suffering from “deaths of sideways change” and “facieties of imprisonment”. , and has drawn attention.

Also, five years ago, when an unfamiliar disease called AIDS was announced, I thought to myself, “This disease is caused by the fate of sudden death.” will subside on the surface, but when it reappears on the surface of society two or three years later,

“エネルギッシュな日常を手に入れる:仏陀の気道法入門”   ”Achieving an energetic daily life: Introduction to Buddha’s airway method”

 


– 仏陀の呼吸法は呼吸作用のコントロールだけでなく、「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー・エネルギー」「ムドラー」「瞑想」「マントラ詠唱」などの技法を統合したもの。
– 仏陀の成仏法は四つの呼吸法によって完成される。
– 仏陀の気道法は四神足法で死道を用い、気道を重要視。これが後に道教の仙道に影響を与えた可能性がある。
– 道教の修行法には仏陀の成仏法の要素が受け継がれ、内気の法や行気の法が阿含経に説かれるシャカの「行息の法」と関連している。
– 仏陀の気道法はクンダリニー・ヨーガの気道法を補足し、泥丸と呼ばれる部位が重要。泥丸は仏陀が説く「涅槃」を指し、涅槃への到達と関連づけられる。
– クンダリニー・ヨーガと道教の気道法は仏陀の気道法を基に発展し、道教の内気の法には泥丸があり、これが仏陀の気道法との関連を示唆している。
– 仏陀の気道法を完璧に知ることは難しいが、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を通じて関連が理解され、仏陀の気道法の一部が復元されたと主張。
– クンダリニー・ヨーガの気道は三本あり、スシュムナー管が中心。ピンガラとイダーは補助的な気道であり、エネルギー放射に関与。
– クンダリニーがスムーズに上下すると修行が進み、最終的にサハスラーラ・チャクラに到達。仏陀の奇蹟やミラクルの池の伝説もこれに関連。
– 仏陀の気道法はクンダリニー・ヨーガの不十分な部分を補足しており、ピンガラとイダーの気道を使用してエネルギー放射を行ったと考えられる。
– 仏陀は弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかった理由として、その法が不安定で不確実であったことを指摘。代わりに完璧な成仏法を教えた。

 

Buddha’s breathing method not only controls breathing, but also integrates techniques such as chakras, prana, kundalini energy, mudras, meditation, and mantra chanting.
– The Buddha’s method of attaining Buddhahood is completed through four breathing techniques.
– The Buddha’s airway method uses the path of death in the Four Gods foot method, and places importance on the airway. This may have later influenced the Xian Dao of Taoism.
– The Taoist training methods have inherited elements of the Buddha’s method of attaining Buddhahood, and the law of shyness and the law of action are related to Shaka’s “law of action and breath” expounded in the Agon Sutra.
– The Buddha’s airway method supplements the airway method of Kundalini Yoga, and the area called the mud circle is important. The mud circle refers to “Nirvana” as preached by Buddha, and is associated with reaching Nirvana.
– Kundalini Yoga and the Taoist airway method were developed based on the Buddha’s airway method, and the Taoist internal qi method has mud circles, which suggests a connection with the Buddha’s airway method.
– Although it is difficult to fully understand the Buddha’s airway method, he claims that the relationship between Kundalini Yoga and Taoist training has been understood, and that a portion of the Buddha’s airway method has been restored.
– Kundalini Yoga has three airways, the Sushumna tube being the main one. Pingala and Ida are auxiliary airways and are involved in energy radiation.
– When the kundalini rises and falls smoothly, the practice progresses and eventually reaches the sahasrara chakra. The miracles of Buddha and the legend of the Miracle Pond are also related to this.
– The Buddha’s airway method supplements the deficiencies of Kundalini Yoga, and it is believed that he used the Pingala and Ida airways to radiate energy.
-The Buddha pointed out that the reason why he did not allow his disciples to use Kundalini Yoga was that the Dharma was unstable and uncertain. In his place he taught the perfect method of attaining Buddhahood.

 


呼吸法、といっているけれども、たんなる呼吸作用のコントロール法ではなく、このあとで説く「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー・エネルギー」(気道) 「ムドラー」「瞑想」「マントラ詠唱」など、すべての技法を綜合しておこなわれるもので、仏陀の成仏法の最終段階のものである。

 

この四つの呼吸法 (繰り返していうが、たんなる呼吸法ではない)で、仏陀の成仏法は完成されるのである。

 

この呼吸法については、またあとで説く。

 

仏陀の気道の法

 


前の節を読まれたら、大体おわかりであろう。
仏陀も、四神足法において、やはり、死道を用いていたのである。

 

行息」 気息を行らす


、というからには、めぐらす道」がなければならない。その道が,気道である。


ただし、仏陀の気道は、クンダリニー・ヨーガの気道とはかなり違うものである。


それは、クンダリニー・ヨーガの気道の欠陥――、欠陥というより不十分な部分、を補足したものといってよいだろう。

なぜ、そういうことがいえるのか?


わたくしは、仏陀の行息法が後に中国に渡って、道教の仙道になっていったものと
考えるのである。すなわち、道教の修行の原点は、

仏陀の成仏法

にあるのである。

道教の基本的修行に、「内気の法」というのがある。また、「行気の法」がある。こ
れらは、阿含経に説かれているシャカの「行息の法」に外ならない。

道教が、仏陀の成仏法を受けついでいると断定する一つの証として、つぎのような
ことがあげられる。
いま言った道教の内気の法の気道に、泥丸という部位がある。頭頂にあってクンダリニー・ヨーガでは、サハスラーラ・チャクラにあたる部位で、道教でも最高のさと
りの部位になっている。

 

この泥丸という名称はどこから来たのか?


これは、仏陀が説く「涅槃」すなわちニルヴァーナを音写したものなのである。こ
の部位を目ざめさせると、涅槃に到達するというところから、名づけられたものである。

このことは、仏陀の修行法と、クンダリニー・ヨーガ、そして道教、との関連を語
るものにほかならず、たいへん興味深いものといえよう。このほかにも、いくつか、
これに類した例をあげることが出来る。

 

 

 

Although it is called the breathing method, it is not just a method of controlling the breathing action, but all techniques such as “chakra”, “prana”, “kundalini energy” (airway), “mudler”, “meditation”, and “mantra chanting”. It is the final stage of the Buddhist mantra meditation.

These four breathing methods (again, not just breathing methods) complete the Buddhahood’s Buddhahood method.
I will explain this breathing method later. Oak

Buddha’s airway law

If you read the previous section, you’ll probably understand. The Buddha also used the dead path in the Iddhipada method.

“Breathing” To breathe, there must be a way to go around. That way is the airway.
However, the airway of the Buddha is quite different from the airway of Kundalini Yoga.
It can be said to supplement the deficiencies in the Kundalini Yoga airways-the inadequate rather than the deficiencies.
Why can you say that?
I think that the Buddha’s breathing method later moved to China and became a Taoist sendo. In other words, the origin of Taoist training lies in the Buddhahood’s Buddhahood method.
One of the basic practices of Taoism is the “law of shyness.” In addition, there is a “law of spirit”. These are none other than Shaka’s “law of breath”, which is explained in Agama.
The following is one proof that Taoism has accepted the Buddhahood of the Buddhahood. There is a part called Mudmaru in the airway of the Taoist shyness law that I just mentioned. At the top of the head, in Kundalini Yoga, it is the part corresponding to the Sahaslara chakra, which is the best part of Satori in Taoism.

Where did the name Mudmaru come from?
This is a transcription of the “Nirvana” or Nirvana that the Buddha preaches. It was named because it reaches Nirvana when this part is awakened.
This is very interesting because it talks about the connection between Buddhist practice, Kundalini yoga, and Taoism. In addition to this, there are some similar examples.

もちろん、道教の気道の法が、すべて仏陀の気道の法そのままだというのではない。
仏陀の気道の法を受けついで、さらに道教独特のものに発展させていったということである。原型が仏陀にあり、仏陀にさかのぼることが出来るというのである。そしてそれはまた、同時に、クンダリニー・ヨーガにも関わってくるということになる。
仏陀の成仏法の修行法を、いま、如実に知ることは至難の業である。それはごく、わずかに、阿含経の中に散在するに過ぎず、不可能に近いといっていいであろう。
しかし、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を、阿含経の中にある仏陀の修行 と対照しつつ実践を重ねていくと、おのずから男罪と浮かんでくるものがあのであ
る。そしてさらに体験を重ね、錬磨し、修行を積んでいくと、突然、閃めきとともにかたちをあらわしてくるものがある。
わたくしは、三十にして仏道に志し、以来、ひとすじに仏陀の成仏法を求めつづけて四十年、ようやくこれをほぼ復原し、体得したと確信するに至った。
そしてその瞬間、さとったのである。この法こそがいままさに壊滅せんとする地球を救済する、究極の救世主の法であったということを。

 

完璧な仏陀の気道法


ところで、わたくしは、前の節で、仏陀の気道の法は、クンダリニー・ヨーガの気道法の不十分な部分を補足したものであるとのべた。

それはどういうことか?

クンダリニー・ヨーガの気道は三本ある。



一つはスシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道である。
中心となる気道はスシュムナー管である。これは、さきにものべたように、尾武骨
から始まって、延髄に至っている。
特殊な意念の力でクンダリニーが目ざめると、そのエネルギーは爆発的な勢いで、
スシュムナー管を延髄まで上昇する。同時に、クンダリニーは、ピンガラ、イダーの
気道を上昇し、クンダリニーのエネルギー調節その他補助的なはたらきをする。
脊髄の右側にあるピンガラは、太陽の気道と呼ばれ、熱を統御する気道とされる。
左側のイダーは、月の気道と呼ばれ、冷気の流れを統御する。もし誤ってピンガラを
通ってクンダリニーが目ざめると、外から全くコントロールのきかないすさまじい体
内熱のために、修行者は、最悪の場合、文字通り真っ黒になって焼け死んでしまうこ
とがあるという。
クンダリニー』の著者、ゴーピ・クリシュナは、この過ちのためにかれ自身、危う
く死をまぬがれた体験を記している。
わたくしが、仏陀を、クンダリニー・ヨーガの完成者であると断定するのは、この 点からである。
さきにあげたミラクルの池の伝説や、雑阿含経に説かれる仏陀の奇蹟- 上半身か
ら火を出し、下半身から水を出すという奇蹟は、このピンガラとイダーを使ってのエ
ネルギー放射なのである。この奇蹟は、クンダリニー・ヨーガ完成者独特のものなの
だ。
さて、クンダリニーが目ざめ、スムーズにエネルギーが気道を上下するうちに、修
行が順調に進むと、クンダリニーはサハスラーラ・チャクラに到達し、ここで修行が
完成する。(ただし、ここまで到達できる修行者は、古今、稀である)
このように、クンダリニーは、尾祇骨から延髄にまで到達し、それからさらに上昇
して、究極的には頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達することになっているの
だが、延髄からさきの、サハスラーラに至る経路がどのようになっているのか、明瞭
ではないのである。
尾武骨から延髄までは、脊柱が通っていて、いうならば一本道であるから、はっき
りしている。しかし、延髄からさき、サハスラーラに至るルートは、一体どういう気


わたくしは、さきに、仏陀が弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかったのは、過激すぎるからだといったけれども、それはそれだけではなかったのである。
クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発法は、不安定であり、不確実だったのる。
仏陀は完璧な成仏法を作製して、弟子たちに教えたのである。

 

 

Of course, not all Taoist airway laws are the same as Buddha’s airway laws.
It was said that he accepted the Buddhist airway law and developed it into something unique to Taoism.
Is. The prototype is in the Buddha, and it can be traced back to the Buddha. and
It also involves Kundalini Yoga at the same time.
It is extremely difficult to know the practice of the Buddhahood Buddhahood. That’s very
It is only scattered in Agama, and it can be said that it is almost impossible.
However, the practice of Kundalini yoga and Taoism is the practice of the Buddha in Agama.
Move
Argama

If you practice it in contrast to it, there are things that naturally come to mind as male sins.
To. And as I gained more experience, refined, and practiced, suddenly with a flash of light.
There is something that shows the shape.
I aspired to Buddhism at the age of thirty, and since then I have continued to seek the Buddhahood method of Buddhahood.
Forty years later, I was finally able to recover from this and be convinced that I had mastered it.
And at that moment, I took it. This law is the earth that is about to be destroyed
That it was the ultimate savior’s law to save.

The perfect Buddha airway

By the way, in the previous section, the law of the Buddha’s airway is Kundalini Yoga.
He said that it supplemented the inadequate part of the law.
What does that mean?
There are three airways in Kundalini Yoga.

 

 

Top secret breathing method ”

The

Let’s go

One is the Sushmuner tube and the other two are the Pingala and Eider airways.
The central airway is the Sschmuner’s canal. This is the tail bone, as I mentioned earlier.
It starts from and reaches the medulla oblongata.
When Kundalini awakens with the power of a special idea, the energy is explosive.
Ascend the Sschmuner’s canal to the medulla oblongata. At the same time, Kundalini is Pingala, Ida’s
Ascends the airways and acts as a kundalini energy regulator and other ancillary function.
The pingala on the right side of the spinal cord is called the airway of the sun and is the airway that controls heat.
The ider on the left, called the lunar airway, controls the flow of cold air. If you accidentally pingara
When Kundalini wakes up, he has a tremendous body that is completely out of control from the outside.
In the worst case, the practitioner will literally turn black and burn to death because of the internal heat.
It is said that there is.
Gopi Krishna, the author of Kundalini, is in danger of himself because of this mistake.
It describes the experience of being able to survive the death.
It is this that I conclude that the Buddha is the perfector of Kundalini Yoga.

From the point.
The legend of the miracle pond mentioned earlier and the miracle of the Buddha explained by Samsung-the upper body?
The miracle of putting out fire and water from the lower half of the body is done using this Pingara and Ida.
It is energy radiation. This miracle is unique to the Kundalini Yoga completer
is.
Now, as Kundalini awakens and the energy moves up and down the airway smoothly, Osamu
When the line goes smoothly, the Kundalini reaches the Sahaslara chakra, where the training begins.
Complete. (However, practitioners who can reach this point are rare in ancient times.)
Thus, the kundalini reaches from the caudal bone to the medulla oblongata and then rises further.
And finally, it’s supposed to reach the top of the Sahaslara chakra.
However, it is clear what the route from the medulla oblongata to Sahaslara is.
It is not.
The spinal column runs from the tail bone to the medulla oblongata, so it’s a straight road.
I’m sorry. However, what is the route from the medulla oblongata to Sahaslara?

I did not let the Buddha use Kundalini Yoga earlier for his disciples.
It’s because it’s too radical, but it wasn’t the only thing.
The Kundalini Yoga chakra development method was unstable and uncertain.
The Buddha created the perfect Buddhahood method and taught it to his disciples.
Buddha’s practice is still going on

 

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

霊障を伴う因縁 ”家族や愛にまつわる不思議な話:運命の反復現象って何?”   Fate with psychic disorders “Mysterious stories about family and love: What is the phenomenon of repeating fate?”

 

 

 

 

 

あああs

 

ssss

ffff

 

 

 

 

 

霊障の因縁

 

 

 

 


先にも述べたが、霊障を伴う因縁がいくつかある。
「横変死の因縁」
「家運衰退の因縁」
「肉親血縁相剋の因縁」
「色情の因縁」
など、ほとんど、霊障のホトヶが霊視される。

○横変死の囚縁

○刑獄の囚縁

○逆恩の囚縁

○肉親血縁相剋の囚縁

○夫の運気を剋害する囚縁

○怨集の囚縁

 

○ガンの囚縁

○家運衰退の囚縁

○刑獄の囚縁

○中途挫折の囚縁

○色情の囚縁

○循環系統障害の囚縁

○財運・本の囚縁

○肉体障害の囚縁

○脳障害の囚縁

○夫婦縁障害の囚縁

〔五慨しへ格の囚縁

○逆恩の’囚縁

○手繰のうすい因縁

○怨集の囚縁

○夫婦縁破れる囚縁

○消化器病の因縁

○産厄の囚縁

○色情の因縁

○二乗人格の囚縁

○中途挫折の囚縁

○家運衰退の因縁

○婦人科疾患の囚縁

o二重人格の因縁

○財運・水の囚縁

○怨集の囚縁

o手繰のうすい因縁

○色情の因縁

○循環系統障害の因縁

心理学でいわれる反覆強迫観念による「運命の反復」現象である。 多くの人は、このことにあまりにも無知過ぎる。 人間の深層心理に目を向けた近代心理学は、まず、ジークムント・フロイトの、個人の無意識層分析から始まった。次いで、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識層(群衆心理学)に進んだ。これに対し、リポット・ソンディは、この二つの層の中間にある「家族的無意識」という無意識の第三番目の領域を、研究対象としてとりあ げた。 つまり、それまでの「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけである。 これは、無意識の特別な領域であった。ソンディは、この学説を、   「運命分析心理学」   と名づけたが、それによると、 個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病および、死亡の形式における無意識的選択行動となって、その運命を決定する。 というのであった。 要するに、特殊な先祖の抑圧された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで運命的に決定してしまう、というのである。 その結果あらわれる現象が、「運命の反復」である。特定の先祖の運命を、そのまま繰り返すという現象である。   その繰り返しは、まったくおなじ運命を繰り返すという例と、まったくおなじではなく、あるワク内での相似した運命をたどるというものと、二種類あるが、いずれも、ソンディの発見した一つの原則にしたがってその反復現象は起きるのである。(ソンディは、かず多くの例をあげて論証しているが、特に、バルザック、ドストエーフスキーの二大作家の例証は有名である.   どうして運命の反復が起きるのか? ソンディは、その原因を、遺伝趣性にあるとする。 しかし、わたくしが考えるのに、この運命の反復のすべての原因を、遺伝塑性のみに帰するのは無理なのである。他にも原因を考えねばならぬのだ。 というのは、義父母、義祖父母、義祖々父母、等々というように、直接の血縁関係でなく、故に、遺伝子(DNA)が遺伝しない間柄においても、明白に   運命の反復現   象が起きているからである。つまり、遺伝子によって遺伝されなくても、特殊な祖先の抑圧された欲求や葛藤は、その子孫の無意識の意識にはたらきかけて、その運命を決定してしまうのである。その実例はいくつもあげられる。 これはいったいどういうことか? 端的に言おう。 「個人の無意識層の中に抑圧されている特殊な祖先の欲求」とは、或る個人の無意風のなかに、特殊な祖先(すでに死者となっている)の欲求 (怨念)が抑圧されていて、その個人(子孫)の行動を決定する、ということにほかならない。 つまり、死者の怨念が、生きている者の無意識の意識を動かして、死者の怨念(欲状)を満足させるための行動をとらせる。それが、死者の人生と同一の道をたどらせることになる。それが運命の反復だ。そして、ここで注目しなければならぬことは、 その死者の怨念の伝達機構である。かならずしも遺伝子によらぬとしたら、いったい、なにがその怨念を伝達するのか? 答は、一種のバイブレーション、というしかないであろう。 ところで、一つの国家、民族、種族は、運命共同体であり、一つの家族である。 運命の反復理論は、そのまま、これにあてはめることが出来るであろう。その場合、 「歴史はくり返す」という現象になってあらわれる。個人の場合は、運命の反復、国、。   「歴shi家・社会の場合は、繰り返される歴史となってあらわれるのである。 人類の歴史は、戦争の歴史である。 戦争による死者の怨念が、生きている人間たちを、次の戦争へと駆り立てる。かくて、はてしなく戦争の歴史が繰り返されるのである。 このままでは、戦争が止むとき、それは人類が絶滅したとき、ということになろう。 宇宙は、宇宙意識によってみたされている。その宇宙意識のバイブレーションの中から、全地球を覆う死者の怨念を消滅させぬかぎり、地球に平和と安穏は、永久に訪れることがないであろう。 以上げた二つの問題をどう解決するか、また、はたして解決することが出来るのか、次に起きる戦争こそ人類絶滅の戦争であると予言されているいま、人類にとってこの上なく切実、かつ緊迫した問題ではないか。 あなたはどう思うか?

 

 

心理学でいわれる反覆強迫観念による「運命の反復」現象である。

多くの人は、このことにあまりにも無知過ぎる。

 

人間の深層心理に目を向けた近代心理学は、まず、ジークムント・フロイトの、個人の無意識層分析から始まった。次いで、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識層(群衆心理学)に進んだ。これに対し、リポット・ソンディは、この二つの層の中間にある「家族的無意識」という無意識の第三番目の領域を、研究対象としてとりあ
げた。

つまり、それまでの「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけである。

これは、無意識の特別な領域であった。ソンディは、この学説を、

 

「運命分析心理学」

 

と名づけたが、それによると、

個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病および、死亡の形式における無意識的選択行動となって、その運命を決定する。

というのであった。
要するに、特殊な先祖の抑圧された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで運命的に決定してしまう、というのである。
その結果あらわれる現象が、「運命の反復」である。特定の先祖の運命を、そのまま繰り返すという現象である。

 

その繰り返しは、まったくおなじ運命を繰り返すという例と、まったくおなじではなく、あるワク内での相似した運命をたどるというものと、二種類あるが、いずれも、ソンディの発見した一つの原則にしたがってその反復現象は起きるのである。(ソンディは、かず多くの例をあげて論証しているが、特に、バルザック、ドストエーフスキーの二大作家の例証は有名である.

 

どうして運命の反復が起きるのか? ソンディは、その原因を、遺伝趣性にあるとする。
しかし、わたくしが考えるのに、この運命の反復のすべての原因を、遺伝塑性のみに帰するのは無理なのである。他にも原因を考えねばならぬのだ。
というのは、義父母、義祖父母、義祖々父母、等々というように、直接の血縁関係でなく、故に、遺伝子(DNA)が遺伝しない間柄においても、明白に

 

運命の反復現

 

象が起きているからである。つまり、遺伝子によって遺伝されなくても、特殊な祖先の抑圧された欲求や葛藤は、その子孫の無意識の意識にはたらきかけて、その運命を決定してしまうのである。その実例はいくつもあげられる。

これはいったいどういうことか?
端的に言おう。
「個人の無意識層の中に抑圧されている特殊な祖先の欲求」とは、或る個人の無意風のなかに、特殊な祖先(すでに死者となっている)の欲求 (怨念)が抑圧されていて、その個人(子孫)の行動を決定する、ということにほかならない。

つまり、死者の怨念が、生きている者の無意識の意識を動かして、死者の怨念(欲状)を満足させるための行動をとらせる。それが、死者の人生と同一の道をたどらせることになる。それが運命の反復だ。そして、ここで注目しなければならぬことは、

その死者の怨念の伝達機構である。かならずしも遺伝子によらぬとしたら、いったい、なにがその怨念を伝達するのか?

答は、一種のバイブレーション、というしかないであろう。

ところで、一つの国家、民族、種族は、運命共同体であり、一つの家族である。

運命の反復理論は、そのまま、これにあてはめることが出来るであろう。その場合、
「歴史はくり返す」という現象になってあらわれる。個人の場合は、運命の反復、国、。

 

「歴shi家・社会の場合は、繰り返される歴史となってあらわれるのである。
人類の歴史は、戦争の歴史である。
戦争による死者の怨念が、生きている人間たちを、次の戦争へと駆り立てる。かくて、はてしなく戦争の歴史が繰り返されるのである。

このままでは、戦争が止むとき、それは人類が絶滅したとき、ということになろう。
宇宙は、宇宙意識によってみたされている。その宇宙意識のバイブレーションの中から、全地球を覆う死者の怨念を消滅させぬかぎり、地球に平和と安穏は、永久に訪れることがないであろう。

以上げた二つの問題をどう解決するか、また、はたして解決することが出来るのか、次に起きる戦争こそ人類絶滅の戦争であると予言されているいま、人類にとってこの上なく切実、かつ緊迫した問題ではないか。
あなたはどう思うか?

 

 

 

近代心理学は、

(1)フロイトの個人的に抑圧された無意識の層、

 

(2)ユングの集合的(群衆)無意識の層、

 

の二つの道を歩んできた。

 

 これに対し、

〔3}ソンディは、その中間にある家族的無意識の層を発見したのである。

つまり、個人と群衆のあいだに「宗族」を発見したのだ。これは、当然、出ずべくして出でたものである。個人

にしても群衆にしても、だれひとりとして「家族」でなかったものはない。とすると、当然そこにひとつの無意識司が存在(または形成)されるはずである。

 では、その無意識層の中に、ゾンデ″はなにを発見したか?

 かれは、「家族的無意識」と名づける無意識層の中に、特殊な抑圧意識を発見したのである。

 それは、ひと口でいうならば、

  「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病および死亡における無意識的選択行動とたって、個人○運命を決定する」

というのである。

 

 ソンディはこういう。

  「恋愛・友情・職業・疾病および死亡における選択の分析にもとづいて、選択の根源はこの家族欲求」

 つまり、ひとの、恋愛、友情、職業、病気、死にかたまで、すべて、それらを決定するのは、そのひとのこころの深奥にひそんでいる祖先の抑圧された意識である、というのである。

 

 これは、個人の運命を形成するこれらの選択行動は、意識的・理性的な考慮の上に立つ決断にょって決定されるのではなく、(もちろん表面的にはそれがなされるが、実際には)選択行動は衝動行為であり、衝動的に選択する無意識的なものによって動かされるのだということである。(ここまではフロイトもほとんどおなじである。フロイトとちがうのは、その衝動が、その宗族-祖先-にふかい関連、かおるというのである)

 

 それはなにかというと、ひとの運命を決定するものが、抑圧された祖先の欲求ばかりではないということである。それがすべてではないということだ。それは非常に大きな要因ではある、が、そればかりではないということである。

 なぜかというと、密教占星術によれば、運命の「時期」まで決定されているからである。ソンディ理論によれば、「形式」の形成の説明はつくけれども、「時期」が決定される説明はつかない。それは先祖の抑圧意識のほかにも要因、かおるからである。それについてのわたくしの理論と意見はここでは述べない。べつな機会にゆずることにする。かなりに厖大な址となるからである。

ソンディ理論は「平面彬成」(空間)の理論であり、このほかに「立体構成」(時間)の理論かおる。㈲の理論は、ソンディのごとく、心理学的方法でなされるが、時間の理論は数学的方法でなされ、かなりに難解なものになる。これはまたべつな一冊の書物となるであろう。

 

タテの因縁とヨコの因縁

タテの因縁とヨコの因縁

人間の持つ因縁の大体を述べてきた。

あなたも、これらの因縁の中のいくつかを必ず持っているはずである、
では、これらの因縁ぱ、いったい、どこから生じたのであろうか?

 仏陀は、経典の中で、
「種の差別は業に由る」 とおっしやっておられる。

つまり、「業」によって、人それぞれちがう因縁を持って生まれるのである、とおっしやっているのである。
では、業は、因縁に対してどのようにはたらくのか?

基本的には「タテの因縁」と「ヨコの因縁」となってあらわれると説く。
タテの因縁とはなほか?

先祖から受けついだ系である。

ヨコの囚縁とはなにか? 自分が前生でなした業である。

このタテの因縁とヨコの因縁の交わるところが、自分である。
図示すると、つぎのようになる。

タテの因縁
(祖先から受けついだ業)
ヨコの囚縁
(自分の前生になした業)
交わるところ
(我である)

つまり、祖先の業と、自分の前生の業と、この二つの業によって生じたのが、自分の因縁である。言葉を替えていえば、自分は、祖先の因縁と自分の前生になした因縁と、この二つによって、この世に生まれ存在しているわけである。この二つの系続から成り立って
いるのが、自分という存在だ。

 どんな人でも、親-祖先なくしては存在しない。ということは、親、祖先から、さまざまなものを受けついでいるということである。顔かたち、性格、体質、その他もろもろのものを受けついでいる、これはどんな人も否むことは出来ない。
有名な儒教の大学者、安岡正篤先生は、その著書『大学』(経書の書名)の講義の中で、こうのべておられる。

The fate of spiritual disorders
As I mentioned earlier, there are some causes that involve spiritual disorders.
“The cause of death”
“The cause of decline in family fortune”
“The relationship between blood relatives and rivals”
“The fate of lust”
Most of the time, the psychic hotoga is seen as a spirit.

○Captivity of horizontal death

○Prison Prison

○ Captivity of indebtedness

○ Captivity of blood relatives and rivals

○ Captivity that harms the husband’s fortunes

○ Captivity of Onshu

 

○The prison of cancer

○ Captivity of declining family fortunes

○Prison Prison

○ Prisoner of midway failure

○ Captivity of lust

○ Imprisonment of circulatory system disorder

○Financial luck/book captivity

○ Prisoner of physical disability

○ Prisoner of brain damage

○ Captivity due to marital disorder

[Gotoshihe Kaku’s captivity]

○ “Captivity” of indebtedness

○A weak fate

○ Captivity of Onshu

○ Marital bond broken

○Cause of gastrointestinal disease

○Captivity of misfortune

○The fate of lust

○ Captivity of squared personality

○ Prisoner of midway failure

○Cause of decline in family fortune

○ Prisoners of gynecological diseases

o The fate of dual personality

○Financial luck/water captivity

○ Captivity of Onshu

o A weak fate

○The fate of lust

○Causes of circulatory system disorders

This is a phenomenon known in psychology as “repetition of fate” due to obsession with repetition. Many people are too ignorant about this. Modern psychology, which focuses on the deep psyche of humans, first began with Sigmund Freud’s analysis of the unconscious layer of individuals. Next, I moved on to Carl Gustav Jung’s collective unconscious layer (crowd psychology). Ripot Sondhi, on the other hand, took up the third realm of the unconscious, the “familial unconscious,” which lies between these two layers, as his research subject. In other words, a “family” was discovered between the “individual” and the “crowd.” This was a special area of the unconscious. Sondhi named this theory “fate analytical psychology,” and according to it, the special desires of ancestors, which are suppressed in the unconscious layer of individuals, affect the love, friendship, occupation, and illness of descendants. And it becomes an unconscious choice action in the form of death, which determines one’s fate. That’s what it was. In short, the repressed desires and conflicts of special ancestors act on the unconscious consciousness of descendants, and fatefully determine their descendants’ love affairs (marriage), friendships, occupations, illnesses, and death. be. The resulting phenomenon is “repetition of fate.” It is a phenomenon in which a person repeats the fate of a particular ancestor. There are two types of repetition: one where the exact same fate repeats, and the other where a similar fate within a certain work is followed, but both are based on one principle discovered by Sondhi. Repetitive phenomena occur. (Sondi uses many examples to demonstrate this, but the examples of two great writers, Balzac and Dostoyevsky, are particularly famous. Why do fates repeat? Sondi explains why this happens, However, in my opinion, it is impossible to attribute all the causes of this repetition of fate to genetic plasticity alone.We must consider other causes as well. This is because even in relationships such as step-parents, step-grandparents, step-grandparents, etc., who are not directly blood related and therefore do not inherit genes (DNA), the phenomenon of repeating fate clearly occurs. In other words, even if they are not inherited by genes, the repressed desires and conflicts of special ancestors affect the unconscious consciousness of their descendants and determine their fate. I can list a number of them. What does this mean? Let me put it simply. “A special ancestral desire that is suppressed in the unconscious layer of an individual” This means that the desires (grudges) of ancestors (who are already dead) are suppressed and determine the actions of the individuals (descendants). In other words, the grudges of the dead influence the unconscious of the living. The consciousness of the deceased is moved to take action to satisfy the deceased’s grudge (greed).This causes the deceased to follow the same path as his life.This is a repetition of fate.And here… What we must pay attention to is the mechanism by which the deceased’s grudge is transmitted.If it is not necessarily genetic, then what is it that transmits the grudge?The answer is probably a type of vibration. By the way, a nation, ethnicity, or tribe is a community of destiny and a family.The theory of repeating fate can be applied to this as it is.In that case, “history is over.” In the case of an individual, it appears as a repetition of fate, or as a nation. In the case of a historical family or society, it appears as a repeating history. Human history is a history of war. Yes. The grudges of the dead caused by war drive the living humans to the next war. Thus, the history of war repeats itself endlessly. If things continue like this, when wars stop, it will be the end of humanity. The universe is filled with cosmic consciousness.Unless the grudges of the dead that cover the entire earth are extinguished from within the vibrations of cosmic consciousness, there will be no peace and tranquility on earth. It will never come again. How to solve the above-mentioned two problems, and whether they can be solved at all, is the most urgent and urgent question for humanity, as it is predicted that the next war will be the one that will wipe out humanity. mosquito. what do you think?

 

 

 

This is a phenomenon known in psychology as “repetition of fate” due to obsession with repetition.

Many people are too ignorant about this.

 

Modern psychology, which focuses on the deep psyche of humans, first began with Sigmund Freud’s analysis of the unconscious layer of individuals. Next, I moved on to Carl Gustav Jung’s collective unconscious layer (crowd psychology). Ripot Sondhi, on the other hand, focuses on the third area of unconsciousness, the “familial unconscious,” which lies between these two layers, as his research object.
Got it.

In other words, he discovered a “family” between the “individual” and “the crowd.”

This was a special area of the unconscious. Sondhi describes this theory as

“Fate analysis psychology”

According to it, it was named

The desires of special ancestors, suppressed in the unconscious layer of individuals, become the unconscious choices of descendants in the form of love, friendship, occupation, illness, and death, and determine their destinies.

That’s what it was.
In short, the repressed desires and conflicts of special ancestors act on the unconscious consciousness of descendants, and fatefully determine their descendants’ love affairs (marriage), friendships, occupations, illnesses, and death. be.
The resulting phenomenon is “repetition of fate.” It is a phenomenon in which a person repeats the fate of a particular ancestor.

There are two types of repetition: one where the exact same fate repeats, and the other where a similar fate within a certain work is followed, but both are based on one principle discovered by Sondhi. Repetitive phenomena occur. (Sondi uses many examples to demonstrate this, but the examples of two great writers, Balzac and Dostoyevsky, are particularly famous.

Why do fates repeat? Sondhi attributes the cause to genetic predilection.
However, I think it is impossible to attribute all the causes of this repeating fate to genetic plasticity alone. There are other causes to consider.
This is because even in relationships such as step-parents, step-grandparents, step-grandparents, etc., who are not directly blood related and therefore do not inherit genes (DNA), it is clear that

Recurrence of fate

Because the elephant is awake. In other words, even if they are not inherited by genes, the repressed desires and conflicts of special ancestors affect the unconscious consciousness of their descendants and determine their fate. Many examples can be given.

What on earth does this mean?
Let me put it simply.
“Desires of special ancestors that are suppressed in the unconscious layer of an individual” are the desires (grudges) of special ancestors (who are already dead) that are suppressed in the unconsciousness of a certain individual. This is nothing more than determining the behavior of that individual (descendant).

In other words, the dead’s grudges move the unconscious consciousness of the living, causing them to take actions to satisfy the dead’s grudges (greeds). This causes them to follow the same path as the life of the deceased. That is the repetition of fate. And what we need to pay attention to here is that

It is a transmission mechanism for the dead’s grudge. If it is not necessarily due to genes, then what is it that transmits this grudge?

The only answer is that it is a type of vibration.

By the way, a nation, ethnic group, and tribe are a community of shared destiny and a single family.

The theory of repeating fate can be applied directly to this. In that case,
This is manifested in the phenomenon of “history repeating itself.” In the case of the individual, the repetition of fate, the country;

“In the case of historical families and societies, it appears as history repeating itself.
Human history is a history of war.
The grudge of the dead from war drives the living to fight the next war. Thus, the history of war repeats itself endlessly.

If this continues, the only time the war will stop will be when humanity becomes extinct.
The universe is filled with cosmic consciousness. Peace and tranquility will never come to earth unless the grudges of the dead that cover the entire earth are extinguished from within the vibrations of cosmic consciousness.

How to solve the above-mentioned two problems, and whether they can be solved at all, is the most pressing and urgent question for humanity, as it is predicted that the next war will be the one that will wipe out humanity. mosquito.
what do you think?

 

 

 

Modern psychology is

(1) Freud’s personally repressed unconscious layer;

 

(2) Jung’s collective (crowd) unconscious layer;

 

I have walked two paths.

 

On the other hand,

[3] Sondhi discovered a layer of familial unconsciousness in between.

In other words, he discovered a “sect” between the individual and the crowd. This was, of course, something that was bound to happen. individual

There was not a single person in the crowd that wasn’t part of the family. If this is the case, an unconscious mind must naturally exist (or be formed) there.

So, what did Sonde discover in that unconscious layer?

He discovered a special sense of oppression within the unconscious layer, which he called the “familial unconscious.”

If I had to put it in one word, it would be,

The desires of the ancestors that are suppressed within the individual determine the destiny of the individual through unconscious choices in love, friendship, occupation, illness, and death.

That is what it means.

 

.

Sondi is like this.

Based on the analysis of choices in love, friendship, occupation, illness, and death, the root of choices is this family desire.”

In other words, it is the repressed consciousness of one’s ancestors hidden deep within one’s heart that determines everything from one’s love life, friendships, occupation, illness, and even the manner of death.

 

This means that these selective actions that shape an individual’s destiny are not determined by decisions based on conscious and rational considerations (which they do superficially, of course, but in reality). ) Choice behavior is an impulsive act, and it is driven by unconscious things that make impulsive choices. (Freud is almost the same up to this point. What differs from Freud is that his impulses are deeply related to and influenced by his ancestry.)

 

What this means is that what determines a person’s fate is not only the suppressed desires of their ancestors. That’s not all. That is a very big factor, but it is not the only one.

The reason is that, according to esoteric astrology, the “timing” of destiny is not determined.

仏教への扉:花と共に歩む瞑想の世界  Door to Buddhism: A world of meditation with flowers

瞑想   花になる

一幅の花を花瓶に挿して目の前に置く。
呼吸法。

眼を半眼にして花を凝視せよ。
最初は、花瓶全体を凝視し、しだいに、花だけに視線を集める。花びらのひ
とつひとつをしっかり凝視せよ。花がしだいに大きくなるだろう。花が近づいてくる。
その花の中に心を移せ。花になるのだ。吐く息とともに、自分が花の中に
入っていく。吸うときに、花が自分の中に入ってくる。
花になったら、眼を閉じよ。花になって、花の外の自分を観よ。花になって自分をしばらく観察せよ。
つぎに、花から離れ、自分に返れ。眼を開いて花を凝視し、もとに戻る。

(花の瞑想法については、『輪廻転生瞑想法I』にくわしく解説しているので、参照して
いただきたい)

Meditation, becoming a flower, becoming a flower


Insert a wide flower into a vase and place it in front of you.
Breath breathing method.
Gaze at the flower with half an eye.
At first, stare at the entire vase, and gradually focus on the flowers. Petal Hi
Stare at each one. The flowers will grow bigger and bigger. Flowers approaching
Come on.
Move your heart into the flower. It becomes a flower. With the exhaled breath, I am in the flower
Go in. When you smoke, the flowers come into you.
When it became a flower, close your eyes. Become a flower and see yourself outside the flower. Become a flower
Observe yourself for a while.
Next, leave the flower and return to yourself. Open your eyes, stare at the flower, and return.
(For the flower meditation method, refer to “Reincarnation Meditation Method I” for details.
I want you)

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

Buddha Japan journal

日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

 

仏教瞑想の奥深さを知る: マインドフルな生活への旅」

  1. チベット密教の「思念による王者の相承」は、霊的バイブレーションによる伝達を指す。
  2. 解脱に至る四つの階梯は、srota äpanna、sakrd-agamin、anāgamin、arhatの順である。
  3. 修行者は大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行を通じて、間脳開発を達成し、霊性を高める。
  4. 大脳辺縁系・新皮質脳を閉ざすことで、間脳の開発が進み、新皮質脳がよみがえり、真のインスピレーションが生まれる。
  5. 修行法として、釈尊の残した霊性完成の方法「成仏法」があり、七つのシステムと三十七のカリキュラムから成る。
  6. 阿含経以外の経典には「成仏法」がないと主張し、阿含経を真の仏教経典と認める。
  7. 七科三十七道品には四念法、五根法などが含まれ、これらは瞑想の一環として分類される。

 

賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう 「思念による王者の相承」であることを。 思念による王者の相承とは、じつ に、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。

 

わたくしは、これによって、解説に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に 達したことを自覚したのであるが、これは、 間脳開発の練行tapasを成就してい なかったら、絶対に得られなかったものである。 内なる受容の態勢がととのっ て初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

解脱に至る四つの階梯

バイブレーション

いま、わたくしは、「解説に至る四つの階梯」といった。

 

だれでも、解脱に至るためには、この四つの段階を経なければならない。そ

してこの四つの階梯を、すぐれた聖師にしたがって歩んでいくならば、だれでも 解説に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもそのとおりだ。

四つの階梯とは、

そこで、この四つの階梯について、のべてみよう。

1 srota äpanna-

二、 sakrd-agamin-

三、 anāgamin-

四arhat-

である。

説明すると

須陀きよめられた聖者

 

阿那含

阿羅漢

斯陀含

高められた聖者

阿那

飛躍した聖者 (次元を)

阿羅漢

次元を超越し、完成した聖者、「仏陀」ともいう。

インスピレーション

では、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでいくのだろうか。

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、 間脳は作動せず、第三の目は開かな いのである。

ただし、誤解してはいけない。 大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、 究極において、大脳辺縁系、 ことに新皮質脳を生かすということなのである。新 皮質脳は「創造の座」であるといわれる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳に あるのである。 間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、

感のなのである。ここが開発されることにより、ほんとうのインスピ レーションが発生するのである。

ただし、問脳を開発するためには、しばらくの間、大脳辺縁系と新皮質脳を 閉ざさなければならないのである。 間脳が開発されたとき、新皮質脳は新しく よみがえる。新しくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なイ ンスピレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

霊性完成の方法と体系

釈尊が残した霊性完成の修行法がそれである。 これを、わたくしは、 「成仏 「法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就した人を

「仏陀」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。 くわしくは、「輪廻転生瞑想法II」 でのべたとおりであるが、それは七つのシ ステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これ

阿含経では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」 とよぶのであ る。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用 語である。

わたくしが、阿含経以外のお経法華経、阿弥陀経をはじめすべてのお経 いささか激しい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典に も、この成仏法がないからである。釈尊がじっさい説かれたのは阿含経だけで あるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないか わたくしはそういうのである。 「成仏法」のない経典など、わたくしは真実 仏教経典と認めることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義 なり存在価値はあろうが、本流ではない。傍流というべきである。このことに 関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

 

四法

身念住法 受念法

心念住法。

法念住法

以上である。

四正断法 断断法修断法 随護断法 律儀断法

四神足法 神足法 勤神足法 心神足法 観神足法

五根法 信根法 精進根法 念根法定根法 慧根法

五力法 ―信力法 精進力法 念力法定力法 慧力法

七党支法 一択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法 捨覚支法 定覚支法念覚支法

八正道法正見法 正思惟法 正語法 正業法 正命法 正精進法 法定法

この七科目、三十七種のカリキュラムは、

う。

 

に分類できる。

四念法・五根法は、瞑想である。

霊性の洗礼

四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想である。

四神足法は、特殊な練行tapas である。

神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、 超自然の神通力を得 るための四種の修行法である。 前にのべたわたくしの練行tapas はこれに属する

この七つの科目のうち、 練行tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて 修行するのである。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、 聖師が決定する。修行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それを見 て、グルが決めるのである。

この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ

まず、間違いなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れても らうことである。それができたら、この修行は八分どおり成功したといっていい くらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということで ある。

グルなくして、正しい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信 心とはちがうのである。 信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教 わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊的能力 を持つグルの助けなくしては、絶対といっていいほど、できないのである。

たとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者に対して、「凝視 の方法」で受け入れの儀式をおこなったとき、彼の両眼の輝きと力が相手の心 をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。ときとして は、まるで電流が身の内に流れ込んだように相手は感じたともいわれる。

こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものに対す あこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その 人の素質にもよるけれども、一度、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひら かれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚 されるのである。霊性開顕への第一歩で、これが非常に大切なのである。わた くしなども、弟子に対し、 わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ問 題は、ほんとうに霊性開顕したグルは非常に稀だということである。 にせもの グルや、未熟なグルにかかわり合うと、とり返しのつかぬことになる。まず、 間違いなく霊性を開顕したグルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れても らうことだ。グルはなかなか弟子を受け入れないものである。

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。 グルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことであ る。心から尊び敬わなければならない。

グルは弟子にとって仏陀そのものなのである。グルは弟子にとって、過去に

へんげしん

出現した仏陀たちの変化身であり、未来の仏陀たちが生まれ出る母であり、い まここに仏陀を体現している尊い存在なのである。

グルは、弟子にとって、この世の中のいかなるものよりも尊い、かけがえの ない存在であるといわねばならない。なぜならば、弟子は無限の昔から輪廻の旅 をつづけて、いまここに至っている。 これからも苦しい輪廻の旅を無限につづけ ていかなければならない。過去、いままでの生)にどれだけ多くの仏陀たちが 輪廻の鎖を断ち切ってニルヴァーナに至るようよびかけたことであろうか。し かし、煩悩と悪行に心曇らせていたために、弟子は、それらの仏陀たちの招き にこたえることができなかった。それがいま、ここに、無量の慈悲心をもって ニルヴァーナに導いてくれる師があらわれ、その方と縁が結ばれた。グルこそ 仏陀そのものなのである。その深い畏敬と憧憬の心をもってグルにしたがった とき、グルは全身全霊の力をもって、弟子を導いてくれるであろう。グルは、 弟子と仏陀とを結ぶかけがえのない水路であり、この水路を通じて仏陀の霊性 霊的パワーが弟子の心に流れ込んでくるのである。最終的な霊性の開顕は、

グルからの霊的パワーの感応なのである。 感応道交といい、画龍点睛という言葉があるが、すべての技法の最後の仕上げは、グルからの霊的感応なのであ る。そしてそれは、師と弟子と、純一無雑に心が融け合わねばなしえないもの なのである。

受け入れの秘儀

ここで、わたくしがおこなってきた独自の「受け入れの秘儀」についてお話 ししておこう。

わたくしのおこなう、「受け入れの秘儀」とは、凝視のしかたと、 それから、 わたくしの指導によるアージュニャー・チャクラへのメッセージ伝達から成っ ている。

この凝視のしかたをおこなう聖者は、ほんのわずかであるが、わたくし以外 にもおられる。しかし、これは、クンダリニー・ヨーガを完成した聖者でなけれ ばできない。

このことは、前出の『密教・超能力の秘密」に書いているが、このころ、わ たくしは「受け入れの秘儀」に凝視のしかたで臨むということを、 すでに決め ていた。しかし、残念ながら、当時、わたくしの弟子として受け入れることので きる人は、まったくといっていいほどいなかった。 最近になってようやく、熱心 に修行している弟子の中から出てきて、実現できたのである。

「受け入れの秘儀」は、いわば仏教の入門得度にあたる。だから、弟子のことを いつも心にかけ、その一人一人に応じたしかたで指導していく。凝視したとき に、 「今後、どのように指導していったらよいか。 どういう霊障を持っているの か」がすべてわかってしまうので、それに応じて指導していくのである。

そして、アージュニャー・チャクラへのタッチも、おこなう。 弟子へのメッ セージを伝えるのである。それには三種類あるが、いずれも、潜在意識に直に 伝える。これは、前述の「思念による王者の相承」の一部にもなっているので ある。

さらに高度な「霊感伝授受け入れの秘儀」へ

既刊「輪廻転生瞑想法I」でのべたとおり、阿含宗は、すでに南伝、北伝、 東伝の三つの仏教体系を統合した世界で唯一の完全仏教教団であったが、先 年、ブータン仏教から強力な霊力を持つ、世界最高の霊法を伝えられたことに より、霊力の面でも完璧となり、名実ともに世界的な完全仏教となった。

わたくしは、この世界最高の霊法をもって、前述の「受け入れの秘儀」を発 させた、さらに高度な秘儀、「霊感伝授受け入れの秘儀」をはじめることにし た。

なぜ霊感伝授”なのか?

さきほどわたくしは、

インスピレーション

間脳はこれまでくり返し説いてきたように、霊性の場であり、霊感の座 なのである」

とのべた。

霊感伝授〟としたのは、この秘儀が、霊感の座である間脳にアプローチする 秘儀だからである。

「受け入れの秘儀」は、凝視のしかたとアージュニャー・チャクラへのタッチ であったが、この「霊感伝授受け入れの秘儀」は、さらに脳の深部の霊性の場 二、強力な霊力を送り込む。

高度の秘儀であるので、そうとうに熱心に修行して、ある程度霊性を開顕し 弟子しか受けることができない。 しかし、弟子たちは、この「霊感伝授受け 入れの秘儀」を受けることで、成仏法を完全に受け入れることができる、ひと つの思念の力を受けとるのである。

 

Astute readers may have already noticed this. This is what Tibetan Esoteric Buddhism calls “succession of the king through thought.” The succession of kings through thought was actually communication through spiritual vibrations.

 

Through this, I realized that I had reached the third state of the four steps leading to explanation, but this is because I had achieved tapas, an exercise in the development of the diencephalon. It was something I could never have gotten. It is only when the inner state of acceptance is established that the mutual acceptance of the king from the outside can be expressed.

Four steps leading to liberation

vibration

Now, I call it “four steps leading to explanation.”

 

Anyone must pass through these four stages in order to attain liberation. So

Anyone can reach the explanation by walking through these four steps according to the guidance of an excellent sage. Of course, the same is true for you.

What are the four stairs?

So, let’s talk about these four steps.

1 srota äpanna-
2. sakrd-agamin-
3. anāgamin-
Four arhat-

It is.

To explain

Suda Purified Saint

 

Anagome

Arhat

Includes Sida

exalted saint

Ana

The Saint Who Leaped (Dimension)

Arhat

A saint who has transcended dimensions and achieved perfection, also known as the “Buddha”.

Inspiration

So, how does a practitioner walk through these four stages?

Training to kill the limbic system and neocortical brain

Simply put, it is a training that kills the limbic system and neocortical brain.

Unless the limbic system and neocortical brain are killed, the diencephalon will not function and the third eye will not open.

However, don’t get me wrong. Killing the limbic system and the neocortical brain ultimately means keeping the limbic system, especially the neocortical brain, alive. The neocortical brain is said to be the “seat of creativity.” However, the true seat of creation is in the diencephalon. As I have repeatedly explained, the diencephalon is a place of spirituality,

It’s a feeling. It is through this development that true inspiration occurs.

However, in order to develop the brain, the limbic system and neocortical brain must be shut down for a while. When the diencephalon is developed, the neocortical brain is reborn. The newly revived neocortical brain becomes a brain with superhuman inspiration and creativity based on spirituality.

So what kind of training is that?
Method and system of spiritual perfection

This is the training method for spiritual perfection left behind by Shakyamuni Buddha. I call this the “dharma” of attaining Buddhahood. Buddhahood refers to the completion of spirituality, and refers to the person who has achieved this.

It is called “Buddha”. That is why I call this method “the method of attaining Buddhahood.” In detail, as mentioned in “Reincarnation Meditation Method II,” it is a method and system for attaining Buddhahood that consists of seven systems and a curriculum of 37 types. this

In the Agon Sutra, it is called “Seven Sciences, Thirty-Seven Ways,” or “Thirty-seven Bodhisattvas.” I did not choose these two names arbitrarily. It is an ancient Buddhist term.

The reason why I criticize all the sutras other than the Agon Sutra, including the Lotus Sutra and the Amida Sutra, in rather harsh terms is because none of the sutras other than the Agon Sutra do not have this method of attaining Buddhahood. In addition to the historical fact that Shakyamuni Buddha actually preached only the Agon Sutra, there is no other “Dharma for attaining Buddhahood” other than the Agon Sutra. I cannot accept any sutra without the “Dharma of Buddhahood” as a true Buddhist sutra. Of course, it has some significance and value, but it is not mainstream. It should be called a side stream. Please read my other books on this subject.

The thirty-seven disciplines of the seven disciplines are as follows.

 

four laws

Mind-judgment method Acceptance method

Mind meditation method.

Hoenjuho

That’s all.

Shisei Danho, Danshaho, Modification Law, Zuigodanho, Ritsugidanho
Four God Foot Laws, God Foot Law, Shinshin Foot Law, Shinshin Foot Law, Kanshin Foot Law
Five-radical method, Shin-kon method, Shojin-kon method, Nekkon-ho root method, Kei-gen method
Five power methods – Faith method, Devoted power method, Psychokinesis law, Eiryoku method
Seven-Party Branch Method One-Choice Method Gaku-Chi Method Shojin Gaku-Chi Method Ki-Kaku-Chi Method Light An-Kaku-Chi Method Saku-Gaku-Chi Method Jo-Gaku-Chi Method Nen Gaku-Chi Method
The Eightfold Path, the Law of Right View, the Law of Right Thought, the Law of True Words, the Law of Right Work, the Law of True Life, the Law of True Shojin Law, the Law of Statutory Law

These seven subjects and 37 types of curriculum are:

cormorant.

 

It can be classified into

.

The Four Thought Laws and the Five Root Laws are meditations.

baptism of spirituality

The Fourfold Dharma, the Five Powers, the Seven Awakenings and the Eightfold Path are practices and meditations.
Shigami Ashiho is a special practice of tapas.

Kamiashi refers to divine power (superpower), and these four divine foot methods are four types of training methods to obtain supernatural power. My practice tapas that I mentioned earlier belongs to this category.

Among these seven subjects, training focuses on tapas, meditation, and practice. The priest decides which subjects to incorporate and how to train them. Each practitioner has different qualities and connections, so the guru decides based on this.

The guru plays an important role in this training. Tell me a little about Guru.

First of all, find a guru who has definitely revealed spirituality, and even if you are accepted by that guru, he will not accept you. If he can do that, he can say that this training has been 80% successful. He says it’s that important and difficult.

Without a guru, proper Buddhist training for spiritual enlightenment is impossible. This is different from ordinary Buddhist devotion. Even if it is just a matter of being taught how to have faith, how to have faith, and how to lecture and interpret scriptures, Buddhist training for spiritual enlightenment is absolutely impossible without the help of a guru with powerful spiritual abilities. Suffice to say, it can’t be done.

For example, when Ramana Maharishi, a modern Indian sage, used the “method of gaze” to perform an acceptance ritual for initiates, the brilliance and power of his eyes penetrated the hearts of the initiates, clearing them of their thoughts. It is said that the flow has been cut off. It is said that at times he felt as if an electric current had flowed into them.

Through this kind of spiritual experience, the disciple’s heart is first purified, and he develops a longing for spiritual things and a desire for spiritual improvement. It is a baptism of spirituality. Although it depends on the person’s caliber, once a person has undergone spiritual baptism, their spiritual senses are enlightened and their yearning for the spiritual world begins to bloom. The existence of a higher dimension than before can be sensed. This is the first step towards spiritual enlightenment and is extremely important. I, his comb, etc., use my own method of acceptance for my disciples, but the problem is that there are very few gurus who have truly achieved spiritual enlightenment. If you get involved with a fake guru or an immature guru, you will be irreversible. First, find a guru who has definitely revealed spirituality, and secondly, if you are accepted by that guru, he will not accept you. Gurus do not easily accept disciples.

I would like to say this about the heart of the disciple who was fortunate enough to be accepted. Once a disciple is accepted by a guru, he becomes a disciple by following the guru wholeheartedly. It must be respected and respected from the heart.

The guru is the Buddha for his disciples. The guru is the past for the disciple.

Hengeshin

She is the incarnation of the Buddhas who have appeared, the mother from whom future Buddhas will be born, and she is a precious being who truly embodies the Buddhas.

It must be said that for the disciple, the guru is an irreplaceable person, more precious than anything else in this world. This is because the disciple has been on a journey of reincarnation since time immemorial and has now reached this point. From now on, he must continue his painful journey of reincarnation. How many Buddhas have called upon us in our past lives to break the chains of reincarnation and reach Nirvana? However, because his mind was clouded by his worries, desires, and evil deeds, the disciple was unable to respond to the invitations of these Buddhas. Now, here, a teacher appeared who guided him to Nirvana with infinite compassion, and he formed a bond with that person. The Guru is the Buddha himself. When he follows his guru with deep reverence and admiration, the guru will guide him with all his strength. The guru is an irreplaceable waterway that connects the disciple and the Buddha, and it is through this waterway that the Buddha’s spiritual power flows into the heart of the disciple. The final manifestation of spirituality is

It is a response of spiritual power from the Guru. There is a term called sensō doko (sensation path training), and the final touch of all techniques is spiritual sensitivity from the guru. And this is something that can only happen if the hearts of master and disciple are united in a simple and pure way.

the secret of acceptance

Here, I would like to talk about the unique “Mystery of Acceptance” that I have been practicing.

The “Mystery of Reception” that I perform consists of a method of gazing and then, under my guidance, transmitting a message to the ajna chakra.

There are only a few saints other than myself who use this method of gazing. However, this can only be done by a saint who has perfected Kundalini Yoga.

I wrote about this in the aforementioned “Secrets of Esoteric Buddhism and Psychic Powers,” but around this time he had already decided that he would approach the “Mystery of Acceptance” with a fixed gaze. Ta. Unfortunately, at that time, there were very few people who were willing to accept me as my disciple. It was only recently that he came out among the disciples who were diligently practicing and was able to realize it.

The “Mystery of Acceptance” is, so to speak, an introduction to Buddhism. Therefore, he always cares about his disciples and instructs them in a way that suits each one of them. When he stares at him, he knows everything about how to guide him in the future.

Also, touch the ajna chakra. He conveys his message to his disciples. There are three types of it, all of which convey information directly to the subconscious mind. This is because it is part of the aforementioned “succession of the king through thought”.

Towards a more advanced “Mystery of receiving inspirational transmissions”

As mentioned in the previously published book “Reincarnation Meditation Method I”, the Agon sect was already the only complete Buddhist sect in the world that integrated the three Buddhist systems of Southern Buddhism, Northern Buddhism, and Eastern Buddhism. By transmitting the world’s best spiritual law with powerful spiritual power, Buddhism became perfect in terms of spiritual power and became a world-famous complete Buddhism in both name and reality.

Using the world’s highest spiritual law, I decided to begin an even more advanced mystery, the “Mystery of Inspirational Initiation Acceptance,” which had given rise to the aforementioned “Mystery of Acceptance.”

Why “inspirational transmission”?

A while ago, I

Inspiration

As I have repeatedly explained, the diencephalon is a place of spirituality and a seat of inspiration.

He said.

The reason why it was called “Inspirational Initiation” is because this mystery approaches the diencephalon, which is the seat of inspiration.

The “Mystery of Acceptance” involved gazing and touching the ajna chakra, but this “Mystery of Inspirational Initiation Acceptance” further explores the deep spiritual places in the brain and the powerful spiritual power. Send it in.

Since it is a highly esoteric ritual, only disciples who have practiced it diligently and have revealed their spirituality to a certain extent can receive it. However, by receiving this “Mystery of Inspirational Transmission and Reception,” disciples receive the power of a single thought that enables them to fully accept the Buddhahood Dharma.

 

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知・情・意、すべてを強化する幸福な修行の秘密”The secret of happy training that strengthens knowledge, emotion, and will.”

  1. 念覚支の修行法は、単に「おもいを平らかにする」だけでなく、こころを平安にする結果が修行そのものではないとされる。
  2. 修行は念の力を強化することから始まり、これは知・情・意の力を均等に強化し、かたよりなく平均化する訓練である。
  3. 知的な力、情緒面、意志を均等に強化し、かたよりないバランスを保つことが重要。
  4. 念そのものの力も神秘的に強化し、一点に集中したときに火を発するほどの力を得る。
  5. 「空観」の体得により、諸法の実相が理解でき、縁起の法を如実に悟ることができる。
  6. 七覚支法の中で念覚支は目玉とされ、真実なる宗教や教法を選び択し、他を捨てる取捨選択が必要。

 

The training method of Nengakusho is said to not only “calm the mind,” but also that the result of making the mind peaceful is not the training itself.
Training begins with strengthening the power of mind, which is training to equally strengthen the powers of intellect, emotion, and will, and even out them without bias.
It is important to maintain an unbiased balance by equally strengthening your intellectual, emotional, and willpower.
The power of the mind itself is also mysteriously strengthened, gaining the power to emit fire when concentrated in one point.
By mastering the “view of emptiness,” one can understand the reality of various laws and realize the law of dependent origination.
Nen Gakusho is considered to be the centerpiece of the Seven Gakushuho, and it is necessary to choose the true religion or teaching method and discard the others.

 

 

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。

意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

しかし、それだけじやない。

念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。

この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

Strengthen your psychokinesis
maintain balance

 

As for what kind of training method this is, if you look at Buddhist dictionaries, it is explained as “to level out your thoughts.” Although Nen Gakusho is explained as “omoi”, that is, making one’s mind peaceful, I do not think that alone is sufficient to explain Nen Gakusho’s training.

According to my own experience with training, it is not that simple, and it is true that it does bring peace to the mind, but it comes from the results, not the training itself. Making your thoughts peaceful means that as a result of practicing Nen Gakusho, your thoughts will always be peaceful, your thoughts will become flat, but this is not a training in itself.

I think this training can be divided into two parts. First, strengthen your mind.

When I say vitality, it sounds cheap. It’s strange to say something like that when you’ve written a book called “Telekinesis” yourself, but calling it “Telekinesis” seems a bit cheap. It strengthens the power of the mind, in other words, it greatly strengthens the power of the mind.

Simply calling it mental power may sound vague, but in short, it is the power of will and the power of intelligence. This is training that greatly strengthens these skills.

In other words, the human mind is made up of three things: knowledge, emotion, and will.

The power of the intellect, the power of the intellect, the emotional function, and the power of the will.

In short, strengthening the power of mind means strengthening the functions of these three departments (intellect, emotion, and will), and not relying on any one of them. Isn’t that what will ultimately lead to peace of mind?

Human mental power is made up of the functions of knowledge, emotion, and will. However, carp is easier to do.

At the beginning of Natsume Soseki’s “Kusamakura”,

– If you work on your knowledge, you will gain strength. If you allow yourself to be carried away by emotion, you will be swept away. In any case, this world is difficult to live in.”

Therefore, when we focus too much on knowledge, we tend to become too logical and stand out. If you are very intelligent, your intelligence is strong, and you will quickly try to reason things out.

If you let your emotions get the best of you, you’ll be swept away, but if you’re too empathetic, you’ll be swept away.

If you had a strong will, this would mean you’re stubborn and there’s nothing you can do about it.

Therefore, it is a practice that strengthens and enhances the functions of intellect, emotion, and will. deer

The most important thing is to average them so that they are not biased towards either of them.Intellectually, they are very advanced, and emotionally, they are rich in so-called sentiments, and they also have a good understanding of artistic aspects. can do. People who are emotionally devoid of compassion tend to become careless and dry. When it comes to artistic things, I don’t understand anything, I don’t find the stories interesting at all, and I don’t even smile when I tell a joke. After about three days, you suddenly burst out laughing at something you heard today and said, “Ah, that’s right, that happened” (lol).

It’s fine to have a strong will, but it shouldn’t turn into stubbornness.

Therefore, we train to greatly strengthen and heighten the mental functions of knowledge, emotion, and will. And don’t rely on either of them. This is the first thing.

But that’s not all.

It mysteriously strengthens the power of thought itself. When concentrated on one point, it generates enough power to start a fire. Therefore, the practice of Kundali’-Yoga is included in this practice of mental awareness.

Next, learn how to see the sky. Therefore, this Seven Gakkushi includes the training of the “Four Thought Treatment Methods”.

By experiencing this emptiness, you will be able to understand the reality of the various dharmas. In other words, we will clearly understand the “Law of Dependent Origination.”

You could say that this Nen Gakusho is the highlight of the Seven Gakusho. No, even among the 37 Daoaki

This includes many teaching methods: religion, faith, and philosophy. Select the truth from thoughts

about it.

Selection is not just a matter of “selection.” The original kanji with no abbreviations is written as “senki”, which means “senki”. The character is moerabu.

In other words, choose the teaching method that is truly true. There are many different religions, beliefs, and ideas in this world. Choose what is true from among them. Then, we throw away the wrong things and the false things and weed them out.

 

 

 

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七道品経

七道品経

 息の如く我れ聞きぬ・一時仏が殴の町彫りたまえにか即ぞあり・仏のしたてまっり退きて一面に坐に印して詔さくぐ世尊のとは如餓ノ世尊いご所が覚分と冷すや。仏い比丘にげたまわくヽ「所謂七道喜・’狩・定’・捨覚な力じ。(要略)

和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祗樹給孤独園に住まりたまえり。その時世尊、彼の比丘に告げたまわく、「上に説けるが如し。差別せば是の如く七覚分を修習し已らば当に二種の果を得べし。現法に漏尽きて無余涅槃を得、或は阿那含果を得んと。仏此の経を説き已り給いしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

雑阿含経「果報経」下

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば是の如く比丘、七覚分を修習し已り、多く修習し已らば、四種の果、四種の福利を得ん。何等をか四と為す。所謂須陀百果・斯陀含果・阿那含果・阿〔現。法〕現世のこと。

〔無余涅槃〕身心ともに解脱して涅槃に入ること。羅漢果なりと。仏、此の経を説き已りたまいしに、異比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 

雑阿含経「七種果経」

 

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば、若し比丘、七覚分を修習するに多く修習し已らば当に七種の果、七種の福利を得べし。何等をか七と為す。是の比丘は、現法の智証の楽、若くは命終時(の智証の楽)を得ん。若し現法の智証の楽、及び命終時(の智証の楽)を得ざらんも、而も五下分結尽くるを得て、中般涅槃せん。若し中般涅槃を得ざらんも而も、生般涅槃を得ん。若し生般涅槃を得ざらんも而も、無行般涅槃を得ん。若し無行般槃を得ざらんも而も、有行般涅槃を得ん。若し有行般涅槃を得ざらんも而も、上流般涅槃を得ん」と。仏、此の経を説き已りたまいしに異比丘、仏の説かせまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 〔現法の智証の楽〕阿羅漢を得て、現実肉身の上に涅槃の証果を得る。有余涅槃のこと。

 〔命終時の智証の楽〕死の刹那に涅槃を得る。無余涅槃の〔中般涅槃〕欲界(この娑婆世界)に死んで、色界(天界)に生ずる中途に涅槃を得る。

 〔生般涅槃〕色界に生じて、久しからずして涅槃を得る。

 〔無行般涅槃〕色界に生じて修行せず長時間を経て涅槃を得る。

 〔有行般涅槃〕色界に生じて久しく修行して涅槃を得る。

 〔上流般涅槃〕色界に於て、天下より上天に進み、色究竟天に至って涅槃を得る。以上、五種不還を説いたもの。

大意

くあるとき、外道の出家が来て、ヽ釈尊に、成仏のための修行法をおたずねした。 

 釈尊は、「七覚支」土そその成仏法でだるとおっしゃって、1 官支・択法覚支・精進営淮党支・狩覚支丿定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きに

                                     

説ぎれた王で、阿那 果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたので仙った。                               

そして、この七覚支を修行すれば、阿羅漢果ヽ阿那含果 斯陀合果 須陀似果が得られると解こなられたのであった

七覚支成仏法

 講説        

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、。七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道です○                        

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊のお弟子となって成仏法を修行するとしたら、七覚支の修行が一番よいどお考えになったからだと思います。

 というのは、釈尊の成仏法は、七科目三十七種の修行馳全部やらなければならないというものではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはでおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、お弟子の因縁を三みてい七科目の中から、おまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。 時には、科目にかまわず、一三十七種の修行法の中から自由にいいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしましょましう。

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

 人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

 夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

 だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

 情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

 ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

 しかし、それだけじやない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。                                

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

 これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

 つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

 正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どういうことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。         、

 たとえば、つぎのようなことです。

 お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。

 そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

 ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正しい瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がはっきりと取捨選択しなければいけないということです。

 たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとはすくない、たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」

「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」

 といったり、

 「あれはダメだ、インチキだよ」

 なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

 それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。

 そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。自分が修行をして確かめて、そうそういう立場から、いろいろな宗教にぶつかっていってみた。そうすると、なかなか明瞭な答が出てこないんです。

 天理教にしても、ひとの道にしても、そのほか、わたくしはいろいろな宗教にぶつかってい1つた。ところがそこで、「この宗教で救われるとは、いったいどういうこ&なんですか?」と聞いてみても、これが明瞭でないんですね。

 ある宗教では、救うというのは「しあわせにするLということ、救われるというのは「しあわせになる」ということと、こう簡単に答える。では、’「しあわせ」というのはいったいなにかと追及してみると、その定義がはっきりしない。

 しあわせというのは、要するに、一つの満足感をあじわうことでしょう、そうわたくしは思い

ます。病気で苦しんでいるひとが、病気が治ったら満足しますから、それで救われたと思うでし

ょう。お金がなくて苦しんでいるひとが、お金が入ると満足しますから、よろこびをもって救われたと思う。

 しかし考えてみますと、満足なんていう状態はないんです、人間にとって。しあわせとか満足とかいうことばはありますけれども、実体はない。というのは、しあわせにしても、満足にしても、これは人間のそのときの状態によってあらわれるものです。

 わたしはしあわせだ、予は満足であるぞよ、とこういう。しかし、そのしあわせとか満足というのは、人間がある状況下で、ある状態においてあじわうもので、どこまでも主観的なものです。ところが、人間の状況とか状態というものは、いつも変わる。「無常Lです。はやいはなし、

わたくしがいつも例にとりますけれども、お腹がすいてお腹がすいてどうにもならない。二日も三日も食べないで、ぷっ倒れるほどお腹がすいている。もうなんでもいいから食べたい。そこへ、ウナ丼や天丼やカツ丼がワーツと出たら、これは満足ですよ、もうむしゃぶりついて食べるでしょう。もう満腹する、これはしあわせですね。

 さっきはぶっ倒れるほどお腹がすいていたのが、こんどはぶっ倒れるほど食べる。そうすると苦しいですよ、なにか消化剤はないか、ということになる。

 江戸小咄のなかに、そういうのがありますね。町かどに乞食がすわっている。そこへ、宴会帰りの旦那が、いいきげんで鼻うたまじりでフラフラやってきた。そこで乞食が、

 「旦那さま、一文やってくださいませ。わたくしは、もう二日も三日もごはんを食べないで、ぶっ倒れるほどお腹がすいております

 といったら、旦那が、思わず、

 「それはうらやましい

 といった。旦那は、あんまり飲んだり食べたりしたので、気分がわるい。そうすると、お腹のたいし、ごちそうをうんと食べすぎたひとは、お腹のすいている状態が引らやましくなる。

 お金がほしいお金がほしい。そこでお金がたくさん入ると、泥棒が入るんじゃないか、だれかにだまし取られやせんか、それが気になって夜も眠れない。

 一つの状況下において、満足感をあじわっているというのが、しあわせという状態なのだから、その状況が変わってしまったら逆になってくるわけです。だから、そんなものはあり得ない。一時的な現象としてはあるけれども、そういったものはつづかない、あたりまえのことです。

 そういうしあわせをあたえる、あるいは満足をあたえるなんていうことは、決して宗教の目標ではないはずです。宗教によって救うとか、救われるということは、永遠的なものであり、永続するものでなければいけない。

 どこかの教団が説くように、この信仰をすれば金か儲かる、大臣になれる、代議士になれる、金持になれる、そんなものはしあわせでもなんでもない。それは到達した瞬聞からそれを失いたくないという苦しみに変わるものです。 

 では、いったい救うとは、救われるとはどういうことなのか?

 それを追求して わたくしはあらゆる宗教の門をたたいて、どれも満足する答は得られなか

った。結局、仏教へもどっていった。

 どうかというとヽ大乗仏教では「試れんをあたえる」ということをいっています。

仏教では、アッシッをアンジンという。あなたがたが、大乗仏教のお坊さんに、

 「あなたの宗旨では、どのように人を救うんですか?」

 と聞いたら、禅宗だろうが、浄土宗だろうが、なに宗だろうが結局、「安心をあたえる」とこういいますよ。                                    

 「安心というのは、いったいなにか? これは儒教のほうで、「安心立命」ということばがあります。要するに、心を安んじて、生ぎるいとなみをつづけるということです。人間というものは、いつもなにかしら不安な心におそわれている、そういった不安感をなくし、心を安らかにして命を立てる、つま句生活をするということ、それを安心という、その安心をあたえるのだ、と必ずこういいます。また、死後の不安をとりのぞくという意味で使うこともあり吏す。

 だから、」仏教のいろいろな宗旨・宗派を調べてみますと、みな、いかにして安心をあたえるかということが、匹テーマになっています。

しかし、では、安心というのはいったいなにか? いつもこころが平安で悩みがないということだ。では、それをどういうようにしてあたえるのが、と問題はそこに行く。

そうしますとこんどは、大乗仏教は、答がみなわかれてしまうんです。禅宗の場合は、坐禅観天台宗。ぱ、「朝題目に夕念仏」といって、朝のおつとめには法華経を誦み、夕方のおつとめにぽ念仏を唱える。日蓮上人は天台宗出身ですから叡山に行って、彼は生一本な男ですから、それで疑問をもった。宗教というのは一本でなければいけない、あれもこれもなんていうのはおかしい。。ところが、比叡山の勤行は、「朝題目に夕念仏」といって、朝は「ナムミョウホウレッゲキョウ」といって法華経を唱え、夕方の勤行には「ナムアミダブ、ナムアミダブ」といって阿弥陀仏をおがんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

 日蓮上人というひとは生一本なひとですから、信仰というものはただひとすじでなければいかん、といヶことで、かれはいろいろ研究して、結局、法華ひとすじ、法華一乗ということで日蓮宗を立てたわけです。                                   

 天台宗の場合は、法華経を信仰して「摩詞止観」の修行をする。真言宗へいくと、密教の修法―金剛界の法と胎蔵界の法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、おなじ大乗仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるでしょう。

 

 これみんな落第なんです、この答は。仏教の目標というのは「安心」なんかじゃない、「成仏」することなんです。『葉隠』の表現を借りると、「仏教とは成仏することと見つけたりです。仏教とは安心をあたえることなりなんて、そんな曖昧模糊なものではない。大乗仏教はもうそこからおかしいのです。なぜそうなったかと考えてみると、成仏法がないからです。さっきいいましたように、各宗旨でみんな安心をあたえる方法がちがう。というのは、はっきりした成仏法がないから、そうなる。そして、「安心をあたえる」というようなはづきりしないことになってしまうのです。

 お釈迦さまはどうおっし『やっているかというと、「成仏することだ」とおっしやっている。涅槃に入ることだと教えておられる。解説して、涅槃に入って成仏したら、安心も不安心もない。

安心とか不安心とかいう相対的なものを越えた、絶対の境地に入ってしまう。これがほんとうの仏教なんです。

 わたくしは、あらゆる宗教を遍歴して仏教にもどり、その仏教の中でまたあらゆる宗旨の門をたたき、最後に最もすぐれた釈尊直説の阿含にたどりつくことができた。ここにくるまで三十年以上かかっています。そのあいだ、択法覚支の連続であった。

 あなたがたは、わたくしよりもよっぽど徳がありますから、わたくしのようにぞんなに時間をかけなくてもすんだ。ぱあっと阿含にきてしまった。よっぽど徳があるんですね。しかし、そのぶん、択法が足りないかも知れん。        

 しかし、そうはいものの、あなたがただって、わたくしほどの勉強はしなくても、現代人としでの感覚、教養、。常識から、この阿含宗をえらびとうた。宗教上の勉強では、、プロ政宗教家や坊さんに。かなわないかも知れないが、しなにより右、おそらく、’自分の人生を賭けるという意気ごみで阿含をえらび取った。これぱすばらしい択法覚支であったと思うです。

                          

朝霧高原にやってきて、三泊四日の出家をして、阿含教法の中でもより高度な法をえらんで身にいつけるため伝法をうけている。りっぱな択法覚支です,

 

精進鴬支            

 択法も、ただえらんだだけではなく、えらんだものを一心に努力精進してぃ自分の身につけなければならない。阿含を学んで、知識として、阿含は最高の仏教であるとわかっただけではだめだ 最高のもだとわかった阿含の教法を、全に自分のものにするために、心。不乱の努力精進というものがなければならない。そこに精進営支があるわけです。

 

修行が苦しいというやつは人前になれない

 

喜覚支

 しかし、その精進覚支も、ミいやいやながらにやったのではだめだというのが、つぎの「喜覚支」なんです。喜覚支というのはよろこびに住する修行だ、というのです。その精進が、真実の教法を身につけるよろこびに住するということです。

えろこびに住さなきゃならんという、これはちょっとむずかしいかもしれませんね。よろこびに住せよ。しかし、「それはわかりますけれども、わたしちっともよろこべないんです。ちっともうれしくないんです岬せめてもう、泣きっつらしないだけ、゛泣きごとをいわないでI生けんめいやっているだけ、。いいと思ってぐださい。

まあ、『それくらいでかんべんしてくださいLというひとがあるかも七れないけれども、お釈迦さまは、それではほんとの修行じゃないとおっしずるんです。

一どんなつちい精進も、どんな苦し。い修行も、それがよろこびに住するという境地でなければ、ほんものの修行ではない、身につかんということいんだ。その苦しいのを苦しいながらにがまんして、努力することが、それが修行じゃないですか、精進じゃないですか、それでいいんじゃないんですか、という理屈も成り立つとおもうんです。そうでしょ、。苦しいことは苦しい、つらいことはつらい、’いやなことはいやだ、けれども苦しいとおもいながら、つらいとおもいながら、いやだとおもいながら、『まあ、とにかく」生けんめいにやってるんだから、それが修行というもので、それでいいんじやないですか、とこういうかもしれないけれども、それじゃほんとうの修行ではない、とこうおっしゃる。なぜかというと、いくつかの理由があげられるとおもうんです。ほんとに、最高にして真実なる教法を選択して、それをわがものにするとい。う努力をしているんだったらば、たとえ苦しくともそのなかによろこびがあるはずだということです。

 それは、わたくしは、わたくし自身の体験でわかるんこのまえもおはなししたけれども、桂米朝という、関西の有名な噺家がおります。あの米朝さんが、この間『米朝全集』という

七冊ぐらいの本を出した。昔からのいろいろな落語を、全部集めて、かれ自身それを演じたのを速記にとって本にした。はなし自体もおもしろいが、その「あとがきLがことにおもしろい。その演じたはなしにまつわる出来ごとや思い出がいろいろ書いてある。その中で、米朝さんがこういうことをいっているんです。

 明治時代の、名人といわれた或る噺家があって、その噺家がこういうことをいっているというんです。どういうことかといいますとね。修行がつらいというやつで、いまだかつて一人前の芸人になったためしがない、というんです。修行をつらいつらいといっているやつで一人前の芸人になったためしはない。こういうことを、その名人が言ったというんです。それを読んで、わた

くしは、つくづくその通りだなあと感じた。

 だれだって、苦しいことは苦しいんです。痛いものは痛いし、悲しいことは悲しい。それを、苦しいと感ずるな、痛いと感ずるな、つらいと感ずるな、というのは無理です。しかしながら、自分にとって最高の価値あると思われるものにふれて、それをわがものにしようとI生けんめいになっているものにとっては、苦しいことは苦しいながら、よろこびがその底にあるんです。・充実感がそこにある、ということです。

 そのよろこび、充実感がないものは、原点にもどって、自分にとって最高に価値あるものをわがものにしようとしている姿勢がほんものかどうか、問い尨せ、ということです。ほんものだったら、苦しい中によろこびがある。      

 わたくし自身の修行体験をはなしますと、そうですね、いつもおはなししていますけれども、

京都で滝行をやうていた時代がある。七年間、わたくしは連続して冬の滝行をやった。夏はやらない。

 九月すぎ、十月ごろから滝に入って、翌年の四月いっぱいやるわけです。そして五月になったら滝場をはなれる。なぜかというと、五月から、入梅過ぎ、暑くなってくると、滝場が混んでしようがないんです。夏、暑くてしようがないときに滝浴びるのは修行じゃない、とわたくしは思う。それはレジャー・ですよ。海水浴へ行くのとおなじだ。

 やっぱり寒いときに滝を浴びてこそ修行なんであって、夏、暑くてし乱うがない、ひとつ滝へでな入ろうか、などといったらシャワーを浴びているようなものでしょう。それはもう修行では

ない・ところがヽおかしいことにヽそういう夏場、滝獣混んでしよ5 がないんです。いろいみな信者をつれて、滝へやってくる。いまはもうそうおがみ屋の先生などが、十人、二十人と弟子や信者をつれていう人たちも少なくなったが、あの時代はずいぶん多かった。

 そういうひとたちが、五人、十人、すくないのは三人、四人、多いひとは十人、二十人と連れてきて、お滝へ入れて滝行し、そのあと飲んだり食ったりして、時にはケッカなんかしてヽますよ。飲んだあと(笑)。いったい何のために滝に入っているのか。

 これは、まあレジャーなんですね。そして家を出るときには、みんなに、『わしは、これから行ってお滝をいただいて、修行してくるんじや』

                          S

「ほう、えろうおまんなあ」

 というようなことで来るわけ。来て、お滝がおわると、精進落しで、酒をのんで、ときには取っ組み合いのケンカなんかしている。もうさきに立つ先生がベロッベロッに酔って、   。

「おまえ、いつもお布施ちびって罰当るぞ」

なんてやっている(笑)。もうどうしようもない。うるさぐてしようがないから、夏は行かないんです。だから、ほんとうに真剣な弟子と師匠は、冬、霜が降りるようになってから来る。しかしそれはご。くわずかで、滝場はシーンとしていますよ。

 そういう時季になってから、。わたくし牒行く。それを七年間やっ、た。         j

昭和三十何年でしたかね、そのころは、いまよりも何か寒かったような気がしますけれども、

正月0 七日でした。そのころは、或るお寺を借りて指導をしておった。観音慈恵会は、まだ道場をもっていない時代です。わたくし自身が修行中ですから、朝、暗いうちに起きて滝に行ぐわけです。朝四時半ごろ、まだまっ暗で、世間は寝しずまっている。

 そこで身じたくをすませて、おもてに出ようとすると、雪が降っている。ピュー″と風が吹いて、雪が吹きつけてくる。気が重いですよ。これからどこかへ行って、爛でI杯やるっていうのだったらそれは心もはずむでしょうけれども、これから滝まであるいていっ七、そこで白衣に着がえて、そうして滝に入るということになると、やっぱり心臓もドキドキしてきますし、気が重い。

けれども、いったん思いたって、仏さまに、やりますと誓っているわけですから、いやもおうもない。勢いよくあるき出す。昭和三十年代のはじめですから、クルマなんていまめように多くはない。自家用車持っているひとなんてごくわずかです。タクシーだってすくない。通りはクルマの行き来もなくしIんとしている。もちろん、お滝に行くのに車を乗りつけるなんていうこはしません。精神的にもそんなことできないが、またそんなことやったら、かえって非常に危険なんです。ヒーターを熱くして、パーツと雪の中を飛ばしてきて、そのヒーターの熱い勢いでパーツと着がえて、パーツと飛び込んだら、パアッといっぺんに心臓マヒです(笑)。だから一歩一歩あるいて行くわけです。そのお寺から約三十分くらいかかりました。

 一歩一歩あるきながら、からだにいいきかせているんです。さあ、これからお滝をうけるんだぞ、しっかりせよ、と、心とからだにいいきかせている。それは前の晩からそうなんです。床に入ると、潜在意識に、あしたの朝起きたら、お滝をうけに行くんだぞ、しっかりしなきゃいかんぞ、ぜったいカゼはひかん、だいじょうぶだ、寒くないぞ、たのしいぞ、といいきかせてねむそれで、潜在意識はたのしいと思うか知らんけれども、表面意識は、やっぱり、寒い、冷めたい、これはたまらんぞという気持です。

 着くと『心経』をあげて、真言をとなえて、そして行衣に着がえて、流れで身をきよめ、それから沌に入る。まあ、それはいいんですよ。もう慣れていますから、スムーズに一連の動作としぐやノしトようがヽ殼初にお滝の水がからだにかかった瞬間、それは冷めたいなんてものじゃない。大根おろしでサア″と肌をけずられているような感じです。

 ことに、わたくしは結核をやって、だいたいが腺病質だった男です。今は修行でこういうが″チリした体に見えるかも知れないけれども、これは見かけ倒しで、もともとは結核で死にかかった人間ですから、寒暑に非常に敏感な体質なんです。寒さはひとよりも寒く感じるし、暑さはひとよりも暑く感じる。もっともそのかわり、うまいものはひとよりうまく感じるかも知れんから(笑)、そのぷん損得なしかも知れんが、とにかくそういったことで寒暑を非常に敏感に感じる体質・なんです。要するに結核体質で、風邪などひくと危険なんです。

\七かし、それはもともと覚悟しているわけで、そんなこと気にしていたら滝行などできない。

そしてあがると、五社の滝神社の奥様がちゃんと薪を燃やしておいて下さるから、それにあたって体を温め、食事をして帰ってくるのだけれども、しんからからだが冷えきってしまっている。

毎日ですから。

 だから、わたくしが本気に滝行と取り組んでいた時代には、真夏になっても水の音をきくと、体じゅうがゾクソクとしたものです。水道の水の音を聞いただけで、体じゅうにトリ肌がたったものです。いまから思うと、徹底的に、水でがらだがいためつけられていたのでしょう。汗をかいていても、水の音を聞くと、トリ肌がたった。

 食事がすむと、ぬれた行衣をふろしき包みにつつんで、今はもう人家がずっとならんでいるけれども、日赤の病院のうらのところの細い道を、五社の滝からおりてくる。いまはもう、大分かわってしまっているようですね。

 その日は、まだ雪がだいぶはげしく降っていて、コウモリ傘をさしてあるいてくると、道の両側に人家がつづいている。道がせまいですから、歩きながらふと見ると、窓があいていて、家の中がのぞけるわけです。のぞこうと思わなくてものぞくことになってしまう。

 それで、ひょうと、一軒の家をのぞいた。すると、その家のおやじさんらしいのが、七日正月というわけでしょう、コタツに入って、お銚子が二、三本ならんでいて、ちょうど、おチョコを

口にこう持っていく’ところでず。とたんに、あ、いいなあ、うまそうだなあ、と思った。同時に、人間の人生というものは、じつにさまざまなものだなあと思った。‐こうして朝暗いうちに起きて滝に飛びこんで、カタカタふるえながら雪の中を帰ってくる男もあれば、起きぬけにコタツ

の中に入って、熱爛で一杯お正月を祝っている男もいる。それが窓一重を境にしているのだから、世の中というものはじつにさまざまなものだ。そう、つくづく思った。

 いったい、三自分はなんのためにこんなことをしているんだろうか。べつにひとにいいつけられたわけでもないし、仏さまに命じられたわけでもない。自分自身、修行に行きづまって、こんなことでもしたら道がひらけるかと思って、‐やむにやまれぬ思いで滝にとびこんだ。自分ひとりの考えではじめたんだから、自分自身でやめようと思ったら、明日といわず、今日から滝に入らずにすむ。

 しかし、じゃあやめてしまうか七いうと、それがやめられない。いままでこれだけ苦労し、つらい思いをしのんでやってきたことが、ここでやめてしまったらなんにもならなくなってしまう。そう思うと、とてもやめられない。

 五年なら五年、。七年なら七年、思いたっただけ、なにがなんでもやり抜こう。ここでやめたら、いまま’でつらい思いをしてきたことが、それこそ水の泡になってしまう。何も得るところがなく、やめるのでは、いままでいったいなにをやってきたのかということになる。なんとかなるか、ならぬか、とにかく、とことんまでやろう、そういう気持になる。同時に、そんな寒いつらい思いをしながらでもiそれはつらいと思いますよ、滝へ入る瞬間は、一瞬であるけれども、もうやめちまおうかと思う。けれどもそれは一瞬であって、やはりこころの根底には、こういうつらい行をいま自分はしている。欲も得もない、ただ純粋に精神的ななにかを求めてこういう行をしている。ごれだけの行が、世間一般の連中にできるか、それをいま自分はやっているんだ。そういうひとつの誇りとよろこびが胸の底にあるんです。

 だから、わたくしは、コタツに入って一杯やっているおっつぁんをみて、ああ、うまそうだなあ、いいなあ、と思ったのは一瞬だけです。ほんとうにうらやましいと思っているのかというと、ちっともうらやましくなそない。むしろ軽蔑している。軽蔑というとおかしいが、あれはふつうの人間、おれはぢょっとちがうぞ、という誇りがあるわけです。あのおっつぁんは、いまああして一杯やって楽しいことだろうが、あれだけのものだ。おれはいまこういうつらい思いをし

ているけれども、いまになにかつかむぞ、なにもつかめなくっても、ふつ`うの人間にはできないことをおれはやっているんだ。そして一歩一歩、仏さまに近づきつつあるんだ。これはだれにもできん。おれだけにしかできないことなんだ。そう思うと、ひとつの誇りと満足感、充実感というものが胸の中にあふれてくる。

 わたくしは、行というものはつらいものでなきゃいかん、苦しいものでなければいかんと、つくづく思いますよ。苦しい、つらい、だからこそ、こんな思いをするんだから、なんとしてでも、なにかつかまなきゃつまらん。そう思って真剣になる。精魂こめて、て心不乱に工夫をす

る。命がけでぶつかってゆく。そうすると、つらいも苦しいも、ふっ飛んでしまう瞬間がくる。あ、これだ、これなんだ、と、天に向かって叫びたいような一瞬がくる。これは、喜びなんていうありふれた言葉では表現できない感情です→喜びが自然に湧い

てくる

 米朝さんが本で書いている名人のはなしというのは、それだと思うのです。

 いまとちがって、明治時代の噺家の修業なんていうのは、たいへんなものだったと思います。

師匠から、人間あつかいされないで、仕込まれる。そりゃあそうです。人情かけていたら、芸なんて仕込めやせんのです。

 この仏法の修行だってそうですよ。

 ほんとういったら、あなたがたをほんとうにきたえようと思ったら、人情なんてものを出したら、ぜんぜんだめです。人情なんかかけていたら、ぜったいに人など教えられるものではない。

人間だと思ったら修行なんかさせられませんよ。現に、わたくし自身が前にやってきたようなことを、いま、あなたがたにやらせられるかというと、とてもやらせられない。かわいそうで かわいそうだという気持が先に立ってしまって、やらせることができない。

 しかし、それではいけないんで、ほんとうは心を鬼にして、諸君を人間あつかいにしないで、

滝つぼにでも何にでもたたき込む。泣きべそかいたら、たたきつけ、けとばす。そのくらいのいきおいでなければ、ひとなんてものは教えられないし、ましてひとを救うなんてことはできんのです。

 けれども、わたくしはまだ修行未熟だからそこまでできないんですよ、あなたがたに。もう、

たった三泊四日のこの位のことで、「まあ不自由でしょうが、しんぽうしてL、なんて言っている(笑)。なにを言っているか(笑)。しかし、わたくしは本気でそういっているわけじゃあない。

ことばでは不自由でしょうが、といっているけれども、そんなことあたりまえなんだ。このくらいのことができないで、ほんとうの仏法の修行ができるか。おれのやってきた百分の一にもあたらんじゃないか。そう腹の中ではいっています。けれども、わたくしは、元来、気の弱い、心の

やさしい(笑)人間でありますから、なかなか徹底できない。

 しかし心の中で、つねに、何とかもっと非人情にならなきゃいかん、情というものを捨てなき

ゃいかん。それが弟子にとって最高の情なんだ、そう考えているのだけれど、なかなかそれができないんですね。

 こういうはなしがあるんだね。これも噺家で、このあいだ亡くなった、何とかという名人といわれたひとですが、あるとき、弟子入りして一年か二年の、十六、七か十七、八の弟子を二人連れて、寄席まわりをしていた。今とちがってむかしですから、雪が降って寒い晩だが歩きです

寄席がおわって弟子といっしょに帰ってきた。もう弟子も師匠も、おなかが空いてペコペコ。寒いなか弟子たちは、

顔を見合せて大喜び、これは師匠、ごちそうしてくれる。あったかい天ぷらツバでもごちそうし

さが囃射にしみる・とヽ師匠がその弟子二人を連れてツバ屋のノレッをくぐったてくれるのだと思ってニコニコして入った。 そうしたら師匠の注文が、天ソバーつ。弟子たちは耳をうたがったわけです。三つというのだろうと思ったら、二つだというんだ。一つの天ぶちソバを三人で食うのかしらん、と思っている

内に、天ぷらツバが出てきた。師匠が割りばしを口で割って、ブウブウ吹きながら、ソバをすする。ふと、顔を上げて弟子たちの顔を見ながら、

 「食いたいか」といったという。ヽ片方はヨダレをのみこみながら、

 「そりゃあ師匠、食べたいですよ」

 「そうか、食いたかったら、はやく一人前になれよ」‐         I ノ     ニ

 フそういってツルッルと食べおわると、金をはらって外に出た。こんちきしょう、と思ったとい呑んだね、弟子たちは。こんな鬼のような師匠があるか。絞め殺してやりたいと思った。けれども、いくちなんで心、絞め殺すわけにはいかないし、その。師匠のところを飛び出したらもう噺家の仲間では食ってはいかれないから、腹の中で、こんちきしょう、いまにみていやがれ、おれは早くえらくなって、天ぷらソ八三杯食ってやるぞ(笑)なんて。

‘もうほんとうに腹が立った。それでお正月すぎに、薮入か何かで家へ帰ったときに、父親から、

「どうだ、師匠、よく仕込んでくれるかL

 ごと聞かれたときに、帰り腹ペコペコで一緒にソバ屋に入ったら、自分だけ天ぷらツバーつとって食って、食いたいか、

とこういいやがるんですよ。それは食いたいから、師匠食いたいです、といったら、そうか、食いたかったら早く一人前になれ、そう言いやがって、とっとと表に出てしまいやがった。あんなヶチで不人情な奴はみたことない」

 そう答えたら、そのおやじさん、いきなりぱあんと肘が横ッ面を張り」ばして、こんなおりがたい師匠がこの世に二人とあるか、と叱りつけたという。これがほんとうにひどを仕込む、師たるものの心がまえだね。わたくしにはそれができないんだな。わたくしだったら、もう天ぶちツ八五杯たのんで、  ’

「おれは一杯でいい。おまえたち二杯ずつ食え」

前になれ。これがほんとyつの師匠というもの(笑)です。わたくしもせいぜい修行して、諸君にになんて(笑≒そんなことではダメだねえ。ほんとうに食いたいか、食いたかったら早く一人何も食わさず、ひと句で天ぶちソバを食えるように心がけまして、つらい、苦しい、と思っ七いたら、芸なんて身につくものじゃない。ようし、人より早く一人前になってやるぞ、と発奮して一心に努力すれば、ふ云が身につぐ喜びどいうものが出、て来士

す。そうなったらいもう、じつらいも苦しいもない。そういうつらさ、苦しさが、芸の糧になってごはなしが横みちにそれましたが、この弟子たちにしても、こういうことをいつまでも根にもつくる。それが、自分でもわかるようになってくる。

 そうで力くて、修行が、苦しい、つらい、といっているやつは、とうてい一人前の芸人にはなれん。なったやつはいない、と、こう、米朝さんの書く名人が言ったというんだね。

 それを、わたくしは、ちがう角度からお釈迦さまはおっしゃっていると思うのです。

 修行はつらいものだぞ、ということが前提なのです。「喜覚支」よろこびに住せよ、という。なぜ、わざわざお釈迦さまが、よろこびに住せよとおっしゃっているのか。それは、修行というものは、つらいものだぞ、苦しいものだぞ、悲しいものだぞということを、前提にして、おっしゃっているのです。

 その中で、よろこびを見出せIいや、よろこびを見出すというのだったらまだほんとうではない。住す、というんですから、自然に、よろこびが湧いで出るのでなくてはならない、ひとりでに、よろこびがこみあげてくる。つらい修行が、よろこびにみちた修行になるよう修行せよ、とそうおっしゃっているわけです。だから、修行、精進というものは苦しいものだぞ、ということをお釈迦さまはこの「喜」という字のかげにおっしゃっているのです。仏法の精進、努力というものは悲しいものだぞ、苦しいものだぞ。決してたのしいものではないのだぞ、つらいものだぞ。

 しかし、その中からよろこびに住するようにせよ。よろこびに住さないようでは本物になれんぞ。じゃあ、どうやってよろこべるようにするのですか。それはおまえが工夫するんだ、どいうことです。工夫することが修行なんです。だから、わたくしが、こうすればよろこべるようにな

石なんていった6 、それはあなたがたの修行にはならん。まあ、ここでのこんなていどの修行は苦しくもつらくもないはずなんだけれども、苦しい、つらいと感じているひとがもしあるとするならばにんな苦しいつらいなかからどうやっとならば、どういう心がまえを持ったならば、。よろこびに住せるのだろうか、と一心不乱に考える。工夫する。そしてそのように努力する。それが「喜覚支」ということである。そう、わたくしは解釈しています。          一xI

ごこ今桜 微笑を持て

 碕覚支

 

 この「狩」というのは、ちょっとわかりにくい文字ですが、「軽安」と訳しているお経ります。    

 忙喰覚乞、という。これは、つねに身心を軽やかに快的にする、ということです。修行中、つぬに身心がかろやかでなくてはならない。どんなにつらい修行、苦しい修行をしていても、しかめっ面で、のろのろ鈍重なことをやっていたのではいけない、というのです。チラシまき修行だろうが、お便所掃除だろうが、なんであれ、身心軽快でなくてはならない。

 この反対の言葉があります。というような意味で、人をして煽惰、怠慢ならしめるものです。睡眠蓋という。のは「心くらく身を重からしめるLという心作用で、人をして、ものごとを行なうにあたり、不活発、鈍重ならしめる。ことを行うにあたって心巧みでない。                    十

 これではいけませんね。軽安覚支はその正反対です。

  ということで、煩悩の一種です。幡沈というのは、「心のめいること。ふさぎこむこと。沈億

不活発な気質Lあるいは、「心を暗く沈ませる心作用Lというような意味で、人をして頼労、

げしに回イにづ悩の中にヽ愉漑瞭睨戸という宗あ芯を覆う

 ここの修行中でも、そうでしょう。朝、目をさまして、起床する。ねむいし、もう、体のあちこちが痛むし、とても身心かろやかどころではない。どうにもならん、みんな仏頂面して、ぷす″として、口もきかない。しかし、それは身心かろやかではない。

 身心をかろやかに、ニゴニコして、おはようございます、と声をかけ合う。何十人という人が目をさましてJだれひとり、にこやかな顔をしておはようございますといわない集団なんて、なんとも異様だとわたくしは思う。

 どんなことがあっても、朝、目がさめる、おはようございます、とニコニコ笑って声をかけ合う。そこから、活気というものが出てくる。それがエネルギー・となって盛りあかってくる。だれもかれもしかめっ面をして、黙ってもぞもぞやっている。悟沈睡眠蓋ですよ。いつまでも、暗く沈んだ空気で、活気がない。だれでもいい、だれかひとり卒先してやるんですよ。「おはようございます。いい天気ですね」まあ、この朝霧高原ではあまりいい天気の日というのはないが、それだけにこっちが明るく軽快でなくてはいけない。おはようございます。今日もがんばりましょう。だれかひとり、そう声をかけてごらんなさい。明るい軽快な気分がみんなにひろがってゆく。そこから活気が湧いてくる。その活気が子不ルギーとなって盛りあがり、みんなの活力とな

ってゆく。

 自分が身心をかろやかにするということは、ひとをも身心かろやかにさせてあげなければいけない、ということです。

 これは、自分ひとりのときでもそうです。

 わたくしは、つねに、「心に微笑を持て」といっています。そうして、心でいつもつぶやくのです。

「かろやかに、明るく、楽しく」

 

修行法と梵行

定覚支

 これは、心をひとつのものに集中してみださない修行です。瞑想法で、純然たる修行法ですから、文字や口では説明できない。実地に指導をうけて体得してゆく。「滅尽定L「四禅定」などをふくむ七科三十七道品の中でも、根本的な修行法ですい

 

捨覚支

 あらゆるものごとにたいし、とらわれる心を捨離する。ものごとにとらわれ、執着するところ

から、煩悩が生ずる。、

「煩悩の犬、追えども去らず」

 などということばがありますが、十分わかっていて、こだわってしまう。とらわれてしまう。

 わたくしは、若いころ、’‐そういうとき、心の中で、「サラリ’、サラリ」とつぶや’いたものです。

とちわれた句、こだわりそうになったとき、サラリ、サラリ、とつぶやいて流してしまうのでを横に向けてしまうので、’心をほかのものに転じてしまうのですね。こ柚は案外、効果がありまつい一こ以て、「であるからこれは執着してはいけない。

す。いろいろ、いろいろと心の中で理くつをこねてとらわれの心を剖一にしすべきだ」なんて考えるよりヽサラリヽサラリ、とつぶやいて横を向いてし

まうのが、1番です。

 しかし、根本的には、「定覚支」による瞑想、「念覚支」による縁起観法、、等によって、完全な「捨」の境界に達するわけです。その境界に達すると、一切を捨て切って、心中、微塵の影もなく、こころ明鏡のごとし、ということになるわけです。`そうなったら、いつ、この世を去っても、異陰など生ずる余地がないわけです‥

’以上、ざ『つとJ七覚支についておはなしいたしました。

、そごで、どの、七覚支の講義を終えるにあたってい最も大切なことを一つ、おはなししておきたいと思います。

 それは、この七党支の修行法をずうっと見て、なにか、気がつくことはありませんか? なにか、気のつくことがあると思います。  ―

それは、、この成仏法が、二つのものから成り立っている、ということですJ     上上一つは純然たる修行法。

これは非常に興眸のあることですね。

 どういうように分けられるかというと、修行法では、「念覚支Lそれから「定覚支」それから捨覚支です。この三つは、特殊な技法から成り立っている。たんなる心がまえ、心がけといったようなものではない、純然たる修行法です。

 い梵行にあたるのは、「精進覚支」喜覚支」「軽安覚支」です。

 「択法覚支Lは、修行法と梵行と両方の立場がある        。            ’ゝ

 以上のように分けられますね○ ’              ‐        ‘     j`

 

 で、これは、七覚支だけのことかというと、そうではない。他の六科目の成仏法すべてにあて’

はまるめです。ただいその比率が、修行法と梵行とが、半々の割り合いでできている場合もあれば、、七対三、六対四ノというようになっている場合もあり、一律ではありません。しかし、かならず、成仏法は、純然たる修行法と梵行とがら成り立っています

 

 これはいったいどういうわけか。もっとも、前に出たお経に、 『-一一優婆塞の諸々の梵行を修し、此法律に於て狐疑を度るものありや不や』

とありましたから、成仏法が、法と梵行と、この二つから成り立っていることは、わかっていたことでありますが、これはどういうわけであるか。

 わたくしは、この、梵行を修行法に加えることにより、在家の者も、出家者とおなじく、解脱の成果をあげることができるようになった、釈尊のご配慮だと思うのです。この、釈尊のご工夫Jじように、成仏できるようになったのだ、そう思います。

により、在家者も出家とおなじように行をしながら、衆生を救済する、指導するというのが建て前ですから、これは特に徳を積むといするようになっている.

よりといいますのは、梵行とはなにかというと、それは「徳を積む行」です。出家者は、自分の修う行をする必要がない。出家者の生活そのものが徳を積む行をするようにずるような方向にいきやすい。これを補正するためには、どうしても、徳を積む仕組みをくわえ

なければいけない。それが、梵行です。

 

 念竟支・定覚支、というような、純然たる技術としての修行法をいくらやっても、それだけでは、成仏はできないのです。徳がなければ、どんなに技術としての修行法をマスターしても、成仏はできない。いや、第一、徳がなかったら、その技術としての修行法を、マスターすることができないのです。必ず、中途で挫折してしう。

 時々あるのですが、わたくしのところへ、超能力の修行法を求めてくるひとがあります。求聞持法あるいは念力の護摩法を体得したいということでやってくるわけです。あるいは霊視力、霊感などを持ちたいという。わたくしの門人になって、一、二年法を修めれば、そういう超能力が得られると思っている。

 ところが、そういう人たちにわたくしがやれというのは、「準祗尊干座行」です。そうして、チラシまき、便所掃除、下足番をやれという。それで、ちょっとやってみて、すぐに、なんだバカバカしい。こんなことで超能力なんてものがつくはずない。もっとほかにいい修行法があるにちがいない、ととび出して、あっちこっち、’「秘法」を求めて、転々としてあるく。  j

 いいですか。

 どんな高度の修行法があっても、修行法で成仏するんじゃないんです。’「徳Lで成仏するんです。。修行法で修行して成仏力を身につけるのには、どうしても徳がなければならない。。徳がなかったら、修行法そのものにさえ、縁がいただけない。  

 

「準眠尊千座行」は、釈尊の成仏法、七科三十七道品にのっとって、修行法と梵行から成り立っている。「準眠尊于座行」と梵行で「五下分結」は必ず切れるのです。必ず「阿那合」―にまではゆける。しかしそれには、修行とともIにしっかり梵行をやって徳を積んでゆかなきゃならんのです。

 

 徳なくして、どうして成仏できるか。

 第一、仏さまのことをなんというか      。 一

「万徳円満」というじゃありませんか。すべての徳が完全にそなわっている、というのです。成仏、というのは、その仏に等しくなることです。徳なくして、万どうしてそれができるか。梵行こそ、」それを可能にするただ一つの道です。修行法に梵行をくわえたことにより、釈尊は者にも、・ぴろく成仏の道をひらかれたのであり、大乗仏教のひとたちがよくいうように、決して

釈尊め仏教は「出家仏教」ではないのです。出家、在家を問わず、すべて、解脱へ到達せめる、゛かの婆践出家が讃嘆したように、まさに、それは、

そく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなした

塞、優婆夷、若は男、若は女、悉く皆随

ぷっ ぼう そう ぴょうどぅほうりっ

仏・法・僧の平等法律なることや』

 てんおお  あめふ  すいるしたが  くだ  ごと  くどん ほうりつ !たまたかく ごと  びく  ぴくに  うぱ

『天大いに雨りて水流随いて下るが如く、琶曇の法律も亦復是の如し。比丘、比丘尼、優婆

ヽく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなしたがなが  ねはん むか ねはん さら はこ  はなはき

邑、茫冬ぼ、、ぼよ君、窃まな、悉く皆随い流れて涅槃に向い涅槃に浚え輸ぶ。甚だ奇なり。なのです。

 

おわりに

原爆坦二度落ちる

 わたくしは、この、日本という国ほど、業のふかい国はないと思うのだ。

 なぜか?

 

 地球上でただ一つの、原爆の被爆国ではないか。

 しかも、一度ならず二度までも    」                \

 ほかに}国もないのである。日本だけなのだ、この惨禍を受けたのは。

 これはいったいどうしたことか。

 もちろん、わたくしは、一日本のほかにも被爆国の道づれがあったらよかったといっそいるのではない。

 

 

おわりに

 この国を以て人類の狂気のみせしめにされた思いである。

 しかも、それで終わるのではないのだ。原爆はこの国にもう1度落ちる。それがわたくしには見えるのだ。

なんという業のふかさか。

 いまや、この国の上空を、破滅のカルマが一面に覆い、それは日に日に、厚く、濃く、なりつつある。

 それが頂点に達したとき、原爆は落ちるのだ 

 カルマを断ち切る方法は、シャカの説いた教法にしかない。 わたくしが、かくもホケトに、現代にシャカをよみがえらせようとしているのは、この国を滅亡から救うために、それしか方法がないからである。

 シャカは、カルマを断つ教法をもとに、個人の成仏を説いた。個人の成仏は、即、国土の成仏にほかならない。それはそのまま、社会の成仏につながる。なぜならば、個人の集団が、国であり、社会であるからだ。

 

 

“家族の影響力:心理学的視点から見た運命の因縁”  “Family Influence: Fate and Fate from a Psychological Perspective”

 

 

 

1. 近代心理学は、フロイトの個人的に抑圧された無意識とユングの集合的無意識に分かれ、ソンディは家族的無意識を提唱し、宗族を個人と群衆の間に位置づけた。
2. ソンディは家族的無意識の中で特殊な抑圧意識を見出し、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と主張した。
3. ソンディ理論は平面彬成(空間)の理論であり、「選択の根源は家族的欲求にあり、衝動的な無意識的選択が運命を形成する」と述べている。
4. タテの因縁とヨコの因縁により、人間の因縁が形成され、業によって異なる因縁を持つと仏陀の教えに言及されている。
5. 因縁の交わるところが自分であり、祖先から受け継いだ系(タテの因縁)と前生でなした業(ヨコの因縁)によって自分の因縁が成り立つ。
6. 脳障害、二重人格、癌、循環器系統障害などの因縁について述べられ、これらが遺伝や前世の業に関連しているとされている。

 

Modern psychology is divided into Freud’s individually repressed unconscious and Jung’s collective unconscious, and Sondhi proposed a familial unconscious, positioning the clan between the individual and the crowd.
2. Sondhi found a special sense of oppression in the familial unconscious, and said, “The desires of the ancestors that are suppressed within the individual become unconscious choices in love, friendship, occupation, illness, and death, and the individual will decide the fate of the
3. Songdi theory is a theory of plane Bincheng (space), which states that “the root of choice lies in family desires, and impulsive unconscious choices shape destiny.”
4. The Buddha’s teachings mention that human relationships are formed by vertical and horizontal relationships, and that people have different relationships depending on their karma.
5. You are where your karma intersects, and your karma is established by the lineage you inherited from your ancestors (vertical karma) and the deeds you did in your previous life (horizontal karma).
6. The causes of brain disorders, dual personalities, cancer, and circulatory system disorders are described, and these are said to be related to genetics and karma in previous lives.

 

 

近代心理学は、

(1)フロイトの個人的に抑圧された無意識の層、

 

(2)ユングの集合的(群衆)無意識の層、

 

の二つの道を歩んできた。

 

 これに対し、

〔3}ソンディは、その中間にある家族的無意識の層を発見したのである。

つまり、個人と群衆のあいだに「宗族」を発見したのだ。これは、当然、出ずべくして出でたものである。個人

にしても群衆にしても、だれひとりとして「家族」でなかったものはない。とすると、当然そこにひとつの無意識司が存在(または形成)されるはずである。

 では、その無意識層の中に、ゾンデ″はなにを発見したか?

 かれは、「家族的無意識」と名づける無意識層の中に、特殊な抑圧意識を発見したのである。

 それは、ひと口でいうならば、

  「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病および死亡における無意識的選択行動とたって、個人○運命を決定する」

というのである。

 

 ソンディはこういう。

  「恋愛・友情・職業・疾病および死亡における選択の分析にもとづいて、選択の根源はこの家族欲求」

 つまり、ひとの、恋愛、友情、職業、病気、死にかたまで、すべて、それらを決定するのは、そのひとのこころの深奥にひそんでいる祖先の抑圧された意識である、というのである。

 

 これは、個人の運命を形成するこれらの選択行動は、意識的・理性的な考慮の上に立つ決断にょって決定されるのではなく、(もちろん表面的にはそれがなされるが、実際には)選択行動は衝動行為であり、衝動的に選択する無意識的なものによって動かされるのだということである。(ここまではフロイトもほとんどおなじである。フロイトとちがうのは、その衝動が、その宗族-祖先-にふかい関連、かおるというのである)

 

 それはなにかというと、ひとの運命を決定するものが、抑圧された祖先の欲求ばかりではないということである。それがすべてではないということだ。それは非常に大きな要因ではある、が、そればかりではないということである。

 なぜかというと、密教占星術によれば、運命の「時期」まで決定されているからである。ソンディ理論によれば、「形式」の形成の説明はつくけれども、「時期」が決定される説明はつかない。それは先祖の抑圧意識のほかにも要因、かおるからである。それについてのわたくしの理論と意見はここでは述べない。べつな機会にゆずることにする。かなりに厖大な址となるからである。

ソンディ理論は「平面彬成」(空間)の理論であり、このほかに「立体構成」(時間)の理論かおる。㈲の理論は、ソンディのごとく、心理学的方法でなされるが、時間の理論は数学的方法でなされ、かなりに難解なものになる。これはまたべつな一冊の書物となるであろう。

 

タテの因縁とヨコの因縁

タテの因縁とヨコの因縁

人間の持つ因縁の大体を述べてきた。

あなたも、これらの因縁の中のいくつかを必ず持っているはずである、
では、これらの因縁ぱ、いったい、どこから生じたのであろうか?

 仏陀は、経典の中で、
「種の差別は業に由る」 とおっしやっておられる。

つまり、「業」によって、人それぞれちがう因縁を持って生まれるのである、とおっしやっているのである。
では、業は、因縁に対してどのようにはたらくのか?

基本的には「タテの因縁」と「ヨコの因縁」となってあらわれると説く。
タテの因縁とはなほか?

先祖から受けついだ系である。

ヨコの囚縁とはなにか? 自分が前生でなした業である。

このタテの因縁とヨコの因縁の交わるところが、自分である。
図示すると、つぎのようになる。

タテの因縁
(祖先から受けついだ業)
ヨコの囚縁
(自分の前生になした業)
交わるところ
(我である)

つまり、祖先の業と、自分の前生の業と、この二つの業によって生じたのが、自分の因縁である。言葉を替えていえば、自分は、祖先の因縁と自分の前生になした因縁と、この二つによって、この世に生まれ存在しているわけである。この二つの系続から成り立って
いるのが、自分という存在だ。

 どんな人でも、親-祖先なくしては存在しない。ということは、親、祖先から、さまざまなものを受けついでいるということである。顔かたち、性格、体質、その他もろもろのものを受けついでいる、これはどんな人も否むことは出来ない。
有名な儒教の大学者、安岡正篤先生は、その著書『大学』(経書の書名)の講義の中で、こうのべておられる。

 

脳障害の因縁

この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。
すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化
症等の病気で、程度の軽い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。
肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきか
なくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。

二重人格の因縁

前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。
酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。
酒乱はこの因縁である。表面意識がアルコールで麻庫すると、遺伝している潜在意識や深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛などもこの因縁である。
この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者
のいることが特徴である。

癌の因縁

胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人ぱ必ず癌になる。

循環器系統障害の因縁

心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。

 

 

 

 

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