Ons
同線五島・有品
正しいお経の読み方
いちみかんよう*1 はいぱん
布施に関する重要なことが説かれたお経、『輔、含経 五品第十四・四』(以下『五戒
品・四》および「増一阿含経・有無品第十五・三、五』(以下『有無品・に『有無品・五)の講義
を行います。これらの二つの品にまたがった三つのお経は、いずれも非常に短いお経であり、ま
た一見すると、まことに分かりきったことが説かれているように思われるかもしれません。しか
し、その意味するところは非常に重大ですから、しっかりと勉強してください。
まず、『五戒品・四』から読んでいきましょう。
こしちゅう。
せんずく
いつは
しらべよう
ないおん
にんちゅう
(四)聞如是。一時仏在舎衛国祇樹 – 聞くこと是の畑し。一時、個、合衛国祇徴給孤独戯に在
給孤独園。爾時世尊告諸比丘。於此 しき。雨の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し已り、多く修行し已れば、
果中我不見一法修行已多修行已。受
人中の福を受け、天上の福を受けて泥道の証りを得ん。
人中福受天上福得泥泣証。所謂広施
所謂広地なり」。仏、諸比丘に告げたまわく、「若し人有
息。仏告比丘。若有人広行布施。
って広く市施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を
現世中得也得力榮得具足。天上人
を
配
黒き異定し、天上、ん中の信量をす。是の故に
TAT
勿有怪む。如是諸比丘当作是学。爾
如く影北三、Mに是の学をすべし」と。の時諸比丘、
於現世中得色得力架得具足。天上人
中食袖無量。是故諸比丘。当行布施
得、來得具足
諸比丘、当に布施を行し、心有ることかるべし。是の
勿有心。如是諸比丘当作是学。爾
時諸比丘開仏所説。低宮奉行
如く諸比丘、雪に是の学を保すべし」と。講の時諸比丘,
仏の所説を開さて秋わ行しね。
「現代暗快
このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世
尊は比丘たちにお告げになられました。
「ここにはたくさんの修行者たちが集まっているものの、その修行者たちのいずれもが、一つの
法を修行していません。
その一つの)法を多く修行するならば、人間界の福を受け、天上界の福を受けて、ニルヴァ
ーナ(涅槃)の悟りを得ることができるのです。その(一つの)法とは、いわゆる広施です」
仏さまは、さらにお告げになられました。
「もしか、広く布施の行を実践する修行者がいるならば、その者は現世の中において物質的な徳
を得て、また力を得て、さらにはその他もろもろの徳を身に備えて、天上界と人間界の福を無量
に享受します。したがって、比丘たちよ、おまえたちはこの布施行を行って、もの惜しみや貪り
の心を捨てなさい。比丘たちよ、この布施行を必ず行わなければなりません」
この説法を拝聴した比丘たちは大いに喜び、修行を実践しました。
この「五戒品・四は、お釈迦さまがコーサラ(舎衛)国の祇園精舎にご滞在されていた時の
お話です。
熊園精舎はまことに広い修行場で、物の本には敷地は三万坪ぐらいあったと書かれています。
ですから、そこにはたくさんの修行者が集まっていたわけです。お釈迦さまはその大勢の修行者
を買めて、
「此の栄中に於て我一法を見ず」
とおっしゃいました。読み下し文ではピンとこないかもしれませんが、これはお釈迦さまのお
此りの言葉です。
お釈迦さまは、
「これだけたくさんの修行者がいて、それぞれに修行しているようだが、どの修行者にも一つだ
けべけている修行があるぞ」
と蜂されたわけです。一法とは、一つの修行法です。成仏するための修行法、これをここで
は法と呼んでおられます。
この番楽は。
お釈迦
「どの行者にも欠けている修行法が一つあるぞ」
どっしゃっているわけですが、ここで注意しなければならないのは,
は常に、
「お釈迦さまが、今、自分に説法してくださっているのだ」
という気持ちで読まなければなりません。ただ単に、字面を追って、
「お釈迦さまが祇園精舎にいて、比丘たちに、『此の衆中に於て我一法を見ず』とおっしゃった
のか。ヘー、そうか..…」
という読み方ではいけません。「此の衆中」とはお釈迦さまの弟子を指すわけですから、当時
の仏弟子はもちろんのこと、現代においてお釈迦さまの教法を学んでいるわたくしや諸君も含ま
れているのです。いや、含まれているどころではなく、お釈迦さまはわたくしたちを叱ってくだ
さっているのだ、と考えなければなりません。
「これだけたくさんの修行者がいるけれども、一つ足りない修行があるではないか。修行法の中
で一つ欠けているものがあるぞ。大切な修行を忘れている。この修行を行うならば、人間界の福
を受け、天上界の福を受け、ニルヴァーナの悟りを得られるのだ。それなのになぜこれを修行し
ないのか!そんなことでどうするのか!」
しく指導してくださっているわけです。今まさに、お釈迦さまから直接のご指導を賜って
いる、と考えながら読むのが、本当に正しいお経の読み方です。
人中とは人間界のことで、天上は天上界のことです。お釈迦さまは、お釈迦さまがおっしゃ
行法実践するならば、人間界と天上界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることがで
きる、とおっしゃっているのです。泥道とはサンスクリット語(発信))
会でミニッパー)を漢字に写したら、
それでは、足りない修行とはなんでしょうか?
法とは広施のこと
お釈迦さまは、広施が足りないとおっしゃっています。広施という法が欠けているぞと、お叱
りになっておられるのです。
いずれの弟子もお釈迦さまのみもとで修行しているのですから、みんな一生懸命にやっている
のは間違いありません。戒を保ち、教学を学び、瞑想・禅定の修行をしているのだと思います。
しかし、いろいろな修行を一生懸命に実践してはいるのだけれども、肝心な一法が欠けていたわ
けです。
その肝心要の一法こそが、広施の行です。
わたくしたちも阿含宗の修行者として、最低でも毎日の勤行だけはしているはずです。けれど
も、一つやっていない修行があるのではないでしょうか?
それが広施です。
「おまえたちは広魔の行が欠けているではないか!」
、お選さはわたくしたちに向かって、北隆されているのです。
のおっしゃる一実演するなら。
界と天上
うまくい界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることができる、と説明しました。人間界の福とは、
人間としてこの世界で受ける福のことです。それから天上界の福とは天上界に生まれること及び、
そこで受ける福のことですが、これにも深い意味があります。
すでに講義をしたように、一生懸命にお釈迦さまの成仏法を修行すると、まず須陀疸という聖
あなた
者になり、次に斯陀含、阿那含と進んで、最終的には阿羅漢(仏陀)となってニルヴァーナに入
ります(上巻・出家経一五一一一九七頁参照)。仏道修行者はこのように聖者の階梯を一歩ずつ
上がって行くわけです。
しだおん
しだん
あらかんようだ。
覚えているでしょう? これさえも覚えていなければ、「一法を見ず」どころか、「二法も三法
も見ず」ということになります。習ったことはしっかり復習して、よく理解しておくことが肝心
です。
須陀互になると、人間界での寿命が尽きたのちに、天上界という高度の霊界に生じます。天(天
上)とは神の境地です。天という一神通を持った存在になるわけです。須陀道は天での寿命が尽
きたのちに、また人間界に生まれてきます。結局、須陀逗は人間界と天上界を七度往来します。
したがって「天上の福を受ける」というのは、必ず須陀湿になるということです。必ず須陀
になって、人間としての寿命が尽きたのちに天上界に生じ、そこで天としての福を受け、それか
らまた人間界に生まれることを七たび繰り返すわけです。
須陀温は天上界へ行っては天の福を受けて、人間界に戻っては人間の福を受けます。そして斯
定合、阿那含と進んで阿羅漢となり、泥道= ニルヴァーナ=涅槃に必ず到達します。わずか三十
※文字の中に、これほど深い意味が含まれています。
一食品・有品
OEO
お釈迦さまは、
『それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちを叱っているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
『若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
ならば、そのような福徳が生じるのです。
心とは目利だけの心
「ま、まるし、心得ることるべし。その着地点
当に是のを作いどん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる性質とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを真といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪真で
す。よく「突氏」などというでしょう。
「あの人は突怪貢だ!」
「どん
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪真です。
お釈迦さまは、怪真の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない
「
とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利)心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一品品
O211
わたくしは若いころに京都伏見の五社の電で毎年、寒中の流行をしていましたが、そこで、自
利心に凝り固まった行者に出会ったことがあります。四十二、三歳の男性でした。自分でいうの
るなんですが、五社の滝でのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしでさえぞっとするような、すごい荒行をしていたのです。
一、二月ろの五社の滝の危水は、谷を流れ下ってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけで、止水ならばとうの昔に凍っているでしょう。滝水を受けると、おろし
金で肌を削られるような気がしました。わたくしはその滝で十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに最も寒さの強い大寒の時には、一週間、食を断ってお滝を受けました。断食し
て寒中の滝に入るなどというのは危険極まりないので、本来ならば絶対にやってはいけないこと
です。けれども、わたくしはそれをやり通しました。
「因縁を解脱しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この寒行をやり通せ
は、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。満腹で滝に入っても寒いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから、滝に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、四日と続いて五日目を過ぎると、生きているのかそれとも死んでいるのか、自分自身でも
からないような状腰になってきます。
「のい人ならば死ぬだろうな。自分も死ぬかもしれない。しかし、これで死ぬようならば、
もできしてもたいしたことはできないだろう。生きるか死んかやってみようじゃな行をしないで長生きしてもた
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
おおはらえた3かりと。
以前は五社の電とか被馬の央山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
賑わった最後のころではないでしょうか。
清滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大祓や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
も、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「あら、あの人は『般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から1月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。
といったきり、なに言葉が出なくなります。以所、わたくしはある知人から、
「は何十年間も信仰をしているのですが、一度も行をやったことがありません。ぜひ滝行を
やってみたいので指導をお願いしたい」
と頼まれました。それで、初めての滝行ではあまり寒い時には無理だろうと考えて、十二月の
初めごろに井高場に連れて行きました。通行の作法を一通り教えて、
「障に入ったら『般若心経」を唱えなさい」
といったのですが、いざお席に入ったとたん、その知人はウンともスンともいわなくなったの
です。しかたなくわたくしが『般若心経』を代わりに唱えて、その人を滝から出しました。
「般若心経」とご真言を唱えろといったのに、どうして唱えないの?」
と訊くと、その人は、
「面に入って水が体に当たった瞬間、なにもかも忘れてしまったんです。どうしていいか分から
なくて、ただ呆然としていました」
と答えました。
そのように、荒行の経験のない人がいきなり冬場のお滝に入っても、とても声など出るもので
はありません。初めてお滝を受けて、朗々と「般若心経』やご真言が唱えられたならば、それは
立派なものです。
時々、寒行の際にお滝場まで車で行く人がいますが、それは邪道であって、心を統一しながら
歩いていくのが本当です。そのお滝場までの道のりを歩いて行く途中、お滝場まであと百メートルと迫ったところで、滝の音に混じって、朗々とご真言や大祓・祝詞を唱える声が聞こえてくる
ことがあります。そうすると行歴の長い行者ならば、とっさに、
「これは、相当な行を積んでいる人だな。今日はなかなかの行者が来ているな」
と察したものです。行を積んだ行者は滝の音を圧倒するような朗々たる声が出ますから、声を
開いただけで分かるわけです。ところが初心の行者は声が出ません。出ても蚊の鳴くような声で
すから、なにをいっているのか、泣いているのか、まったく分かりません。
滝行で声が朗々と出せるようになるには、約三年はかかります。わたくしも滝行で四、五回は
声をつぶしました。滝の音に負けまいと大きい声を出すと、声がつぶれてしまいます。昔、浄瑠
用や長唄などの芸人さんは寒中に大川などへ行って、のどから血を出しながら声を絞って歌った
そうです。そのようにして声をつぶし、その上で出てくる声が本物の声だということです。
わたくしも四、五回ほど声をつぶしましたが、一回声をつぶすと半月くらいは声が出なくなり
ました。まったく声が出ないのです。蚊の鳴くような声さえ出ません。まさに無言の行です。そ
れを経験して以来、わたくしは、何時間ぶっ続けに法話をしても、まったく声がつぶれなくな
りました。それまでは一時間半も法話をすれば、声がかすれて出なくなったものです。しかし、
滝行で声をつぶしてからはぶっ税けに法話や講演をしても、全然、声がかれなくなりました。
ですから、滝行や寒行をした人でなければ本当の説教はできない、とわたくしは考えています。
お坊さんが長時間お説教したからといって、声が少しでも衰えたり、かれるようならば、これは
一人前ではありません。わたくしはそのようなお坊さんは認めません。行に行を重ねてこそ、腹
の底から本当の声が出るのです。
OS
