最後の身の欲というのは、肌に触れる心地よいものへの貪りです。
この五根に対応する、色・声・香・味・触の五つの欲を五欲といいます。やはりこれも『般若
心経』の中に出てきます。「無色声香味触法無限界乃至無意識界(色も声も香りも味も覚も心に映
るものも実在ではない。眼の領域から心の領域まで実在のものはない)」というように出てきます。
したがって五欲を受けるというのは、今お話ししたような五根から生じる欲望を断ち切れない
でいる、ということです。ですから、梵行もできない。しかし、お釈迦さまの教法だけは守って
こ当てはめると、聖典勤行はきちんとやるが梵行はしないで、ある程いる。こ
利川首徒に当てはめると、その上うな修行をしている優婆塞と優婆夷が得る果報を箇条書きにすると、次のようになりま
す ○
の思うままの生活をやっている人ヽということになります。
○隻切口創り顎蕊……此の法律に於て三結を断じ貪恚痕薄くして、斯陀含を得、一往一
○梵行列り測い。優奏夷……一一一結尽き、須陀証を得て悪趣の法に堕せず。決定して正しく三菩
来して苦辺を究竟す
三結尽き、須陀証を得て悪趣の法に堕せず。決定し
提に向い、七だが天人往生する有りて苦辺を究竟
身見・疑惑・戒取の三結を切って、欲貪と献恚を弱めるということになります。
このように、身見・疑惑・戒取の三結を切って、欲貪と瞑恚を弱めた方を斯陀含と呼びます。
三結だけでなく欲貪と瞑恚も、つまり五下分結をす
三結とはすでに述べたように十結の最初の三つの煩悩、身見・疑惑・戒取のことです。貪恚療
は三結の次にある煩悩、欲貪と瞰恚のことです。したがって、三結を断じ貪恚療薄くするとは、まだ少し欲貪と眼恚が残っている。これが斯陀含です。
しだ含は別名を一来といいます。斯陀含になると命終ののちに天上界に一度生まれ、最高の徳を持って人間界に生まれてきて、そこでまた修行をして人々に尊ばれ、悟りを開いて仏界へ入ります。人間界と天上界を一往来するから一来というわけです。
次に、三結だけを断じた人は須陀おんとしし これは斯陀含よりも一つ下の位の聖者で、別名を預流といいます。預流とは、聖者の流れに入った人という意味です。いねば新米の聖者です
ね。しかし、新米’末席とはいえ、聖者の仲間入りをするわけですから、たいへんなものです。
須だおんがで悪趣に堕せず、とあるようにもう二度と地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に堕ちることがありません。三悪趣に堕ちるということは、つまり不成仏霊になって霊障を起こすという
ことですが、それだけではなく、この世に三悪趣の因縁を持って生まれることも指します。三悪趣の因縁の代表は次のとおりです。
三悪趣の因縁
・地獄界の因縁……横変死の因縁、刑獄の因縁、肉親血縁相剋の因縁をともなう強い家運衰退の因縁
・餓鬼界の因縁……強い家運衰退の因縁、強い中途挫折の因縁
・畜生界の因縁……肉親血縁相剋の因縁
この三悪趣の因縁を持つたまま亡くなると、必ず霊障を起こします。これを、「阿含経」の中の言葉で表現すれば、「悪趣に堕する」となります。
ところが須陀逼になると、もう二度と悪趣に堕ちません。そして天上界と人間界を七回往来し
て三菩提を得て、仏界に入るとされております。ただ、七回というのは最も多い回数で、須陀逼
でも修行が進んだ人は、二、三回往復しただけで仏界に入るようです。
三菩提とは阿糎多羅三貌三菩提の略で、この上ない正しい悟りのことです。須陀証は何度か
人間界と天上界を往来して、最終的にはこの正しい悟りを得て仏界に入ります。
要するに、梵行を修する優婆塞と優婆夷は阿那含となって高度の天上界に転生し、二度と欲界
に戻ることなく仏界へ入るのに対し、梵行を修さない優婆塞と優婆夷もそれぞれ斯陀含、須陀逼
という聖者にはなるが、阿那含と違って何度か人間界と天上界を往来してからでなければ仏界へ
入ることはできない、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。
「自分は、この世では須陀逼か斯陀含になれればよいと思って修行しているので、別に阿那含に
なれなくてもかまいません。ですから、梵行はしなくてもよいですね。梵行をしなくても、三悪
趣の因縁は切れるのですね」
という人が必ずいます。人間は楽な方へ、楽な方へと向かう為のですから、必ずそういう人が
いるわけです。
「お釈迦さまの弟子にも梵行をしない人がいた。そして、そういう人でも須陀逼か斯陀含になれ
た。だから自分も梵行をしない」
それはそれで一つの考えです。しかし、逆に、
「お釈迦さまの弟子たちの中にも梵行をしない人はいた。そしてその人たちも、須陀逼か斯陀含
!なノ‘いろ。トかし、これはお釈迦さまのお力によるものが大きいのではないか? どうのこ
9 92jlS 7てiu‐、彼らUお釈迦さまの直弟子である。直弟子であるから、お釈迦さまの徳の力で
三悪趣の因縁を断ち、須陀逼か斯陀含になれたのではないのか? ところが自分たちは、そうで
はない。世界的な危機に見舞われるような末世の、末法の世の住人である。だから、そんな甘え
たことをいっていてはいけないのではなかろうか?」
というようにも考えられます。そうではありませんか?
考え方には二通りあるわけです。お釈迦さまの弟子でもやらなかった人がいるから自分もしな
い、という考えをとるか、それともお釈迦さまの弟子だからそれでよいだろうが、自分たちはそ
んなことをいっていられる身分ではない、と考えて梵行をするか?
やはり、末世に生きるわたくしたちは梵行をしなければならない、ということになるのが本当
です。今は、昔とは完全に世の中の状況が違うのですから、甘えたことなどいっていられません。
さてそれでは、婆嵯種出家は今までのお釈迦さまのお答えを聞いて、どのように感じたのでし
ょうか?
