未来社会の安心”
あんじん
いまやわれわれは二つの危機的な問題をかかえているわけである。
一つは、われわれをとりかこむ環境から生ずる抑圧と葛藤、
もう一つは、生まれながらにして自分自身の深奥に持つところの、祖先の抑圧意識による葛藤で
この二つは、今後ますますエスカレートしてゆくのにちがいないのである。
われわれはこれにどう対応してゆくべきか。
二つの能力を持つよりほか、方法がない。
一つは、増大する情報を迅速機敏に処理し解決してゆく知的能力である。
もう一つは、情報処理にあたって生ずる心情的ひずみ、つまり、潜在意識・深層意識に生ずる 抑圧と葛藤を消滅する情・意(こころ)の能力である。
この二つの能力を持つよりほか、この危機を乗り越えることはできない。そうでなければ、ひと 落伍し、社会は崩壊するよりほかないであろう。
では、われわれは、どのようにしたらこの二つの能力を持つことができるのか?
教育がそれを果たし得ないことは、すでに現実が証明している。 科学もそれをなし得ない。いや、
教育も科学も、むしろ、抑圧や葛藤を深める源泉であることは、いまさらフロイトの言葉を引用す るまでもないことだ。宗教がそれをなすよりほかないのである。
しかし、それも、いままでのような、念仏をとなえ、題目を唱して仏にすがり、あるいはひた すら神にいのりをささげるといったパターンの宗教では、まったく問題にならない。今後こういう パターンの宗教は、急速にその存在価値を失ってゆくであろう。いままでは、こういうパターンの 宗教でも、存在価値はあった。 辛うじて、情意の面においてひとびとに慰安と鼓舞をあたえ、いわ ゆる“安心”という名のこころの安定をあたえてきた。
けれども、未来社会に生きる人びとの真の“安心”は、いままでとまったくちがって、単に情意 の面だけにはたらきかけるだけのものでは得られないのである。 未来社会に生きる人びとの“安 心”は、高い知的能力がともなうことにより、はじめて得られるのである。 それは、飛躍的に増加 するあらゆる情報を的確迅速に処理してはじめて得られる“安心”である。
あらゆる情報を的確迅速に処理するとは、どういうことか? それは、あらゆる問題を的確迅速 に「解決する」ということである。それには、自分自身がより高度の知能を持つということ以外 方法がないではないか。考えて見たまえ。 殺倒する人生の諸問題 仕事・職場の問題、学業の間 題、経済的な問題、家庭の問題、健康の問題、その他人間関係全般に関する問題、等々、すべて、 自分自身が処理・解決しないで、いったいだれが解決してくれるのか? それらの問題を解決でき ないで、あるいはしないで、ひたすら題目をあげ、念仏をとなえ、神にいのりをささげているのは、 現実以外のなにものでもあるまい。だが、神サマや仏サマがなんとかしてくださるというなぐ
さめは、しかしそう長くはつづくまい。やがてきびしい現実といやでも直面せざるを得なくなる。
そのとき現実はまったく破局的な様相を以て君に迫るだろう。
わたくしはこれまでの章で、情報を処理するときに生ずる心理的抑圧といってきたが、これか らは、処理するときに生ずる抑圧ではなく、処理できないために生ずる抑圧
くるだろうと思うのだ。(いや、すでに現在そうなりつつある)
これを解決するためには、どうしても、知能そのものを高めるよりほかないのである。ところが、 いままでのいかなる宗教も、この、知能そのもの、いうならば知能の場そのものを拡大増強すると いう方法手段を持っていなかったのである。いや、それどころか、いままでの宗教のほとんどが、 それとまったく正反対のことをおこなってきていたのである。
すなわち、古いパターンの宗教は、ヒトから知的能力 知的要素を奪うことにより、安心”を あたえてきたのである。 せまい排他的・独善的な教義を押しつけ、社会的に盲目にさせることによ
安心”をあたえた。 その宗教集団でしか通用しない閉鎖的な世界観や価値観で目かくしして、 その中で、救われつつある”という錯覚を起こさせているのである。だから、その信者は、その 集団の群れの中にいるとき、あるいはそれを背景にしているときには強く有能に見えるが、そこか らはなれた場合、全く無力となり、ひいては劣等感を持つようなことになる。もしあるひとがその 宗教に入って高い知能や才能を発揮したとすれば、それは、その宗教のシステムによってあたえら れたものではなく、もともとそのひと自身が持っていた知能であり、才能である。それが、その宗 教により、情意の面の抑圧がとれて表面に出てきたものなのである。
ニー壊滅した修行の場”
こういう現実の上に立って、あきらかに密教でなければなし得ない大きな一つの力がある。 それは、密教が、ヒトの知能を飛躍的に増加拡大する求聞持明法というシステムを持っている ことである。 それは、同時に、深層意識の抑圧・葛藤をも除去する力を持つ。ということは、つま り、この章の冒頭にかかげた、いまわれわれが直面している二つの危機的な問題を解決する方法手
密教が現実に持っているということである。 未来社会において密教がはたす最大の役割りと して、わたくしが密教に大きな期待をよせるのも、この点なのである。わたくしは、密教こそ、 におし流されつつある人類に投げかけられた、最後の救いのロープのように思われてならない。 われわれは、力を寄せ合って、このロープをもっと強く、もっと太く、全人類がこれにすがってひ き上げられる強大なものにしなければならない。それにはいくつかの問題がある。
その最大のものが、修行する〝場〟の問題である。
はっきりいって、 求聞持法をするのに適した修行場は、現在、ほとんど無くなってしまった。 なんとかがまんできる程度のものが、わずかに一、二かぞえることができるが、これとても、いつ まで持つか知れないのである。あるいは、こうしてペンをとっている間にも、その環境は破壊され てしまっているのかも知れないのだ。
さきにもちょっと述べた通り、求聞持法の修得に最も大切なものは、修行する 「場」である。
行の場が不適当であったら、ぜったいに法は成就しない。 わたくしが、さきに、自分はラッキーで あったといったのは、偶然にもわたくしはその修行場にめぐり合えたからである。すこしオーバー ないいかただが、求聞持法の体得には、師よりも場のほうが重要だといってもいいほどなのである。 これは、伝統を守る密教のかたがたからみたら暴言だといわれるかも知れないが、わたくしの体験 である。ぜったいに師がなければ法が体得できないとしたら、いちばん最初に法を体得成就したひ とはいったいどうしたのかということになる。かれには師がいなかったのだから。
法を完全に成就した師がいれば、師が場の役をはたすことができる(くわしくは言わないが、だい たいおわかりになるだろう)。わたくしが師なくして体得できたのは、最高の修行の場を、偶然に得た ことと、それを感じ得た特異体質のおかげである。しかし、わたくしのこの貴重な修行の場も、い
昔日のおもかげはない。此処でひとにぎりの、すぐれた素質を持つ弟子たちを訓練することは できるが、それはそれこそほんのわずかな、ごくかぎられた人数であって、わたくしがかねて念願 とする、すべてのひとにあまねく密教の法をゆきわたらせようとすることは不可能である。 それに それにふさわしいべつな修行の場を見いださればならぬ。しかし、この地上、いずれのところに、 そんな場所があるであろうか。いまもなお聖者が住むという、ヒマラヤの奥地にでもいくよりほか あるまい。だが、そのヒマラヤの奥地さえ、最近は、海抜三千メートルの頂上附近にリゾートホテ ルが建ち、ヘリコプターが観光客を運んでいるという。ましてや、この過度に開発のすすんだ日本 列島のいずこにも、とうてい見あたりそうにはないのである。絶望である。
と、そういうと、どうしてそんなに修行の場にこだわるのか、なぜにそんなに修行の場所が重要
なのか、わからないというひとがいるかも知れない。 よろしい、 それでは、わかりやすい例をあげ 説明してみよう。 それはこういうことなのだ。
三新しい〝場〟の理論
ナイル川の西岸にあるピラミッドは、王たちのミイラを収容する墓として、ファラオたちによっ 築かれたものである。それは紀元前三〇〇〇年にさかのぼり、最も有名なものはギザにあるもの で、第四王朝の時代に建てられた。その中の最大のものは、ケオプスという名によってよく知られ クフ王を収容したものである。これは、現在では、大ピラミッドとよばれている。
数年前、ボビという名のフランス人がそこをおとずれ、真昼の燃えるような太陽からのがれるた め、ファラオの部屋に入った。 その部屋はピラミッドの中心にあって、その墓からちょうど三分 の一だけ上に位置していた。かれはそこが異常に湿っぽいことを知ると同時に、かれを非常におど ろかせ、かつ興味をいだかせるものをそこに発見した。それは、その湿っぽい場所に、カラカラに 乾いた小動物たちの半ミイラ状の死体がいくつかあったのである。それは、ピラミッドの中に迷い こんで死んだネコやその他の砂漠の小動物たちの死体で、旅行者たちが捨てるくず入れのカンの中 に投げこまれていた。 非常な湿気があるにもかかわらず、それらはまったく腐敗しておらず、古い ものはミイラのように乾ききっていた。これを見たかれは、周囲に手厚く葬られたファラオたちが、 完全なミイラ状を保っているのは、当時のミイラ製造技術者たちの特殊な技術によるものか、それ
