私たちを教育したり、お説教したりして、いたずらに抑圧と葛藤をおこさせて、私たちの はたらく意欲と力をそこなうようなことはやめてほしい。
それよりも、私たちの力をひき出し、高めて、私たちの力を思うぞんぶん活用する方 法>を使って下さい。
そういう方法がたしかにあるのだから。
今日は、あなたにモンクをつけにきたんじゃない。それを教えてあげたいと思ってやって きたんだ。
それでは、さよなら さよなら、さよなら」
とどこかで聞いたような声でそうくりかえしながら、海馬氏はすうっと消えていった。
3 密教は旧皮質に直接アタックする
「なんだ夢だったのか」
私は、初夏のこころよい風に吹かれながら、書斎でうたたねをしていたのであった。原稿
用紙が数枚とびちっている。
夢かと私はつぶやきながら、しかしまた同時に、待てよ、と思った。 これは、原稿に 苦しんでいる私を見かねて、私の深層記憶の海馬氏が助けに出てきてくれたのではなかろう そういえば、私の言いたいことをすべて私以上によく語ってくれている。もうあらため 私の言うことはない。 そうだ。 海馬氏の言ったことをそのまま書けばよいではないか。 そ こで、といったわけである。
ところで、あなたは、この海馬氏の主張を、たんなる夢ものがたりと読みすごしてしまっ てよいであろうか?
そうはいかないようである。 三三七ページのジャン=ポール・シャリエの文章をもう一度 読みかえしていただきたい。
「第一に、抑圧は心理的葛藤を生じさせる。••••••抑圧された諸傾向は、決して消滅する
ことはなく、社会的習慣の背後に身を潜め、思いがけないきっかけを利用して外に表わ れてくる。その表われ方はさまざまで、ときには、遊戯、戦争、迫害などの形ではし ほとばしり出たり……あるいは、言い間違い、失錯行為、神経症的行動となって浮か びあがってくる。 ……」
これらの抑えつけられたエネルギーは、人間の高尚な活動、すなわち芸術的・科学的・技
術的・宗教的活動などに昇華されることもあるが、かんじんの、
「文化は大体においてこの任務をしくじっており、われわれの不安、苦悩、暴力の原因 はそこにある」
これは、文化と教育が、新皮質の知性と理性を通じて大脳辺縁系の深い層の意識を抑圧し その反発が起きることを意味する。
「まず第一に、教育は無意識の感情層を知らず、子どもに精神外傷を与える」
おなじことをいっているわけて、教育とは学校教育だけにかぎらず、道徳や宗教の教え ることはすべてこの場合教育であり、おなじように、子どもとは、年齢の問題ではなく <教える〉ことを受けるがわは、すべて<子ども〉ということになる。
第二に、社会の中で抑圧された深い層のエネルギーを、高尚な活動に昇華できるのは、ほ んのわずかなエリートだけであって、ほとんど、
「大部分の人間は、依然として社会的・道徳的・宗教的拘束のもとに生活しており、な ぜそうしなければならないのかの理由を理解できず•••• 大衆の精神的みじめさと不安定 はそこから生ずる」
「こころ
あらゆる〈教え〉は、それが道徳であっても宗教であっても、深い層の意識にとっては拘 抑圧しかなく、それの強制は、人間にとって、不幸と不安とみじめさを増大するだけ だといい、
「第三に、社会的制裁は、つねに宗教的おどしと組み合わさっており、人間を二度 ふたたび立ち直れないほど責めさいなむ。そのため、病的な集合的罪悪感がはぐくま 重大な精神的不安の原因となる」
社会的制裁とは、社会通念上の道徳観念をさし、宗教的おどしとは、キリスト教における 原罪思想、ある種の仏教団体などが強調する法罰法思想である。
その結果生ずる「病的な集合的罪悪感」「重大な精神的不安」は、たんなる精神上の不安 や昏迷だけを生ずるのではなく、肉体上にも、医学で解決できない多数の心因性疾患を生み 出すのである。
以上の結論するところのものはなんであろうか。
要するに、教育と、〈教え〉を主にした宗教の完全な敗退である。
そして、その敗退をごまかそうとして強調する原罪や法罰などの宗教的おどし、制裁を
てつけつ
近代心理学はようしゃなく別抉して否定する。 そういう宗教はけっして現代の人間を救うも
それはともあれ、
のではなく、かえって混迷におとしいれる前時代的なものであると結論する。百年、二百年 前の素朴単純な人々は、そういうもので人生の悩みや矛盾を抑圧され、まぎらわされていた であろうが、複雑な精神機構を持ち、高度な教養と合理的精神をそなえるようになった現代 人にとって、そんなものは〈まやかし以外のなにものでもない。
実際、それは、新しい地獄ゴクラク論ではないか。それは、数百年前の人々を教えみちび いた地獄ゴクラクの教育譚を、新しく粉飾してさし出したものにすぎない。たとえどんなに 理論化して、巧妙に表現したところで、それは、新しい地獄ゴクラク論である。 法罰とか、 法などということで、人生の矛盾に悩み苦しむ大衆を恫喝し、抑圧してひっぱってゆこう とする宗教団体の人々、ことにその指導者にたいして、私は、つねにいぶかしく思うのだ。 この人たちは、深く自分をかえりみて、恥ずかしいと思ったことがないのであろうか?
もう
自分たちの主張するそういうものを、心の奥そこから深く信じて少しもうたがわないとす れば、それは、まさにおどろくべき無知と迷妄に満ちた精神というよりほかなく、もしも信 じておらずに、その職業的立場からやむをえず主張し叫んでいるとすれば、虚妄以外のなに ものでもない。いずれにしても現代の宗教家として恥ずべきことではないか。
マスゲーム
抑圧され、さらに宗教的おどしによっていっそう圧迫されたエネルギーを転化するために、 きびしい布教活動に追い立て、「病的な集合的罪悪感」をまぎらわすために大声で戦闘的な 歌を合唱させ 団体競技や大集会をもよおして欲求不満をごまかそうとする。もしそのよう 宗教があるならば、それは、抑圧されたエネルギーをまぎらわしているだけで、まぎらわ されたエネルギーは、けっきょく自分自身をきずつけるのだと近代心理学はきめつけるので ある。
それでは、密教はこれにたいして、どのような方法で対処するのか?
こころ
大脳辺縁系の深い層の意識にじかにはたらきかけるのである。
こころ
教えの宗教の欠陥は、新皮質の「知性・理性」を通じて深層意識にはたらきかけよう とするところにある。これが、新皮質とはまったく異質の機構を持つ深い層の意識に抑圧と 感じられ、葛藤をおこし、反発のエネルギーを生ずるわけである。
密教は、まったくちがう。
在に動かすのである。
新皮質を使わずに、深い層の意識に、じかにはたらきかけるのだ。そして、これを自由自
密教は特殊な技術により、欲望を教えやおどかして抑圧せず、リビドーの源泉である深層 意識と直結して、直ちにこれを昇華させる方式をとる。
ジャン=ポール・シャリエは、社会の中で抑圧された深い層のエネルギーを、高尚な活動 昇華できるのは、ほんのわずかなエリートだけであって、といっているが、それはたしか にほんのひとにぎりの天才にしかなし得ぬわざである。密教は、特殊な技術により、欲望の 源泉である深い層の意識を新皮質の知性と直結して、直ちにそれを昇華させてしまう。これ が、「即身成仏」なのである。 「即身成仏」とはこれ以外のなにものでもない。
それは、コトバを使わないから「教え」ではない。「技術」である。 「方法」である。 そして、それが、密教の「大随求法」と名づけられた法なのだ。
おわかりであろうか? 三五〇ページで、私は、「大随求法」とは「深層記憶、深層意識 を自由自在にコントロールする技法である」と言い、「このことがいったいなにを意味する ものか、それがどれほどの価値を持つものなのか」と言った。これが、その答えである。 密教をたんなる加持祈疇だなどと信じていた人々、そう主張していた人々は、心から恥ず べきである。密教こそ他に類のない高度に組織された宗教であり、まさに未来宗教ともいう べきすぐれた技法をもった宗教ではないか。あなたはそう思わないか?
