運命と因果律
運命学は帝王の学
実に
じゃないかという感じがしてくるのである。それは、その生命論があまりにすばらしいからである。 人の運命がすべてわかるというそのことは、運命学が解明した生命理論の正しいという証明のため になされているのであって、 主役は生命論であり、運命がわかるということは傍役なのではないか という感じである。
私も最初のうちは、ほとんどの運命学研究家がそうであるように、 運命学とは人の運命がわか るというそれだけのものだと思っていたのである。あなたもそうではないだろうか?
ところが、本当の運命学にふれるにおよんで、それは全くの間違いで、人間生命の解明こそが運 命学の第一義なのだということがわかってきたのである。
考えてみれば、それはしごく当然のことであって、人間生命の本質・原理さえ把握すれば、ある 人間を一つの時点でとらえて、そこから、過去でも未来でも、自由自在にキャッチすることができ るのである。 数学者は、あたえられた一定のデータの数字をもとに答えを出す。 それは、彼が、数 学の原理や公式を知っているからで、その原理や公式は、数の事実を解明することにより得られた ものである。 それと同じことで、人間の生命を成立させているところの原理をつかめば、ある一つ でもでも自在に答えを出すことができる。これを逆にいえ とづいて人の運命を解析し、ピタリと適中したら、その原理が正しいということになるのではない か。そのために、運命学は人の運命をみるのであって、いわば生命理論の検算をしているのじゃな いか、と思われるくらいなのである。
むかし、東洋では、運命学を「帝王学」 とよんで、君主たるものの必ず修めねばならぬ学間と されていた。それは、多くの人を統率したり、敵国と戦って勝利を得たりする上に、自他の運命を 知って対処することが最も有利であるという功利的な面からだけでなく、運命学を学ぶことが、人 間をよく知る最もよい方法だったからだと私は思うのだ。
むかし、孔子であったか、よい政治をするにはどんなことが大事かと聞かれて、 「よく人を知る にあり」と答えている。
政治に限らず、人間というものの本質を知り、理解するということは、学問といわず、科学とい わず、あらゆるものの根本であり、基礎であり、すべてここから出発し、ここにもどってくると思う のである。その、よく人を知るということにおいて、運命学より以上のものは他にない。なぜなら ば、先に申したとおり、運命学は人間生命の本質と原理をしっかり把握しているからである。
運命学を学んでその堂に入り、自由自在に人の運命がわかるところまでいかなくとも(それはた しかに難事だが)、この生命論を学ぶことにより、人間の本質を知ることがどんなに有益なことか
が他の人びとと違っていたため、その間違いをすぐトも
それは、どういうことかというと、運命学を学ぶ人びとは、ほとんど全部、人の運命がめる
真の運命学は生命論である
むしろ、場合によっては、人の運命がわかるということよりもすばらしいのではないかと思う。
いまの皇太子さまのことは存ぜぬが、今上陛下までは、代々皇室必修の学問として、すぐれた運 命学の一つであり、人間学でもある「易経」を学ばれたはずで、それも、以上述べたところに由来 しているものであろう。 また、皇室には、古代から極秘に伝えられてきた運命学の一種、明学が あり、現在もなお宮中には陰明師という運命学者のグループがいるといわれている。
運命学は、また、そのほかにも「宰相の学」とか、「聖賢の学」ともよばれ、尊ばれてきたので
ところが、「運命学」というと、たいていの人は、いわゆる「あたるもハッケ、あたらぬもハッ ケ」というあの占いを思い浮かべるようである。あなたもそうではないだろうか?
だが、違うのである。 占いは運命学ではないのである。 運命学の一部に占いはあるけれども、占 い、すなわち運命学ではないのである。「学」には体系と普遍妥当性がなくてはならない。 占いに は体系もなければ普遍妥当性もなく、方法だけがあるので、ゆえに「術」とよばれ、「術」とい う。占術は運命学の体系の中に組み入れられて、 運命学の一部になっている。だから、占ってもの ごとを予知するということは、運命学のごく一部であって、すべてではないのである。
そういうと、あなたは意外なことに思われるかもしれない。さらに、前の項で述べたように、運 命学は東洋においてすべての学問の上に置かれてきたなどと聞くと、びっくりすることと思う。 実 ほとんどの人は、運命学は占いの一種か、占いそのもののように考えて、それが学問であるな どとはとうてい想像もつかないことであろう。 迷信のようにさえ考える人も少なくないのである。 しかし、それは、本当の運命学を知らないからなのである。それには、いままでの運命学者にそ の責任があると私は思う。いや、運命学者というより「運命判断家」というべきかもしれない。
運命学者と運命判断家とは、同じようでいて、全く違うのである。どこが違うかというと、運命 学者は運命学そのものを体系立てて研究し、学ぶ。 運命判断家は運命の予知、運命の分析、判断の 方法だけを習得する。 というのは、この人たちは運命学とは人の運命を判断予知するもので、それ 以外のなにものでもないと考えている。 本当の運命学では、人の運命の予知や判断は運命学の一部 であってすべてではない、ということを彼らは知らないのである。誤解しないでいただきたい。い うまでもなく運命学は人の運命を予知し判断するために生まれたものであるから、運命学で人の運 命を予知し判断すること自体、悪いことでもなければ、間違ったことでもなく、ただ、運命学がそ
れだけのものだと思ってしまうことが間違いだと私はいうのである。
実は、私も最初そういう間違いをおかしていたのである。幸い、私の場合、運命学にふれる動機 が他の人びとと違っていたため、その間違いをすぐに悟ることができたのである。
それは、どういうことかというと、運命学を学ぶ人びとは、ほとんど全部、人の運命がわかるよ
うになりたいと考えて運命学に入る。(あたりまえじゃないか)
ところが、私の場合はたいへん違っていたのである。 先の項でちょっとふれたように、私は、仏 教の因縁論、生命論を確かめる方法を求めて運命学に入った。 私は、自分を救ってくれる宗教は仏 教以外にないと確信して仏門に帰依したわけであるが、その仏教の根幹となるものは、三世にわた 因縁の理論である。 因縁と宿命とと、この三つが仏教理論の根本である。 これを学びつつ、私 考えたのである。
なるほど、仏教学を学べば、理論としてうなずけるけれども、はたして実際にそうなのかど うか、それに絶対間違いがないか、人間の生命に前世が本当にあるのか、というものの本質は何 にか、理論ではなく、本当に自分自身でなるほどとつかみとってみたい。つかみとらねば待でき ぬ。それにはどのような方法があるだろうか?
必死に考えて、これと思われるあらゆる方法をこころみた。その中の一つに運命学があったので
一つのことを追求しはじめると徹底しなければ承知できぬ私は、あらゆる運命学を研究した。 姓名判断 数理学、 トランプ占い 水晶占い、砂占い 測定法 九星術 干支術などから、トレ ミーなどの西洋占星術、八門遁甲、 奇門遁甲 紫微斗数、 六壬天文学、 海子平におよんでその 極に達し、もうこれ以上、深い運命学は無いだろうと思うに至った。よく百発百中というけれど も、私は、これら高度の運命学になると、百発百二十中だとよく冗談をいうのである。というの
は、時に、本人自身の知らぬことまでわかってしまうからである。
だが、私は、百発百二十中でも満足できなかったのである。
私の場合、ただ人の運命がよくわかり、よく当たるというだけではダメなのである。私は、そう いうことを求めて運命学に入っていったのではない。 ヨーガや真言の荒行をした結果、私は、当時、 かなりの霊感力を得ていて、霊感だけで人の運命がわかるようになっていたから、運命がわかると いうだけならば、なにも苦労をして運命学を研究することはなかったのである。
なぜそれらの高度の運命学の方式を用いたら人の運命がわかるのかその理由、その原理が知りた かったのである。その原理が私の求めているそのものか、または、それを得る鍵になるのではない か、と考えていたのである。
数学がそうですね。問題を出されて、答えだけをポツンと書いて出しても、なぜその答えが出た のかという計算の過程を明らかに書かなければ、その数字がいくら合っていても、試験官は及第点 をつけてくれない。 答えよりも、その数字が出された過程、方法、原理が必要なのである。 それと 同じことで、私の求めていたのは、運命がわかる、判断が適中したという答えよりも、なぜわかる
のかということ、つまり原理を知りたかったのである。
