
釈尊は成仏法を通じて、人間が特殊な生命形態を持っていると説明している。
「中阿含経」の一節によれば、人間は無量の生死を経て、さまざまな姓や字で生まれ変わり、苦楽を経験する。
修行者が不動心を得て宿命智通を覚り、悟りを得ると、生死を超えた智慧が生じるとされている。
梵志が三度にわたり清浄な心を得て漏尽智通を修め、苦の真理や解脱を知り得ると説明されている。
釈尊は自身の瞑想経験を通じて、禅定が深まるにつれて心の浄化と智慧の開花が起こり、前世の光景を見ることができたと述べている。
わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。
なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。
特殊な生命形態とはどういうものか?
釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、ここは、瞑想によって悟を完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマ・ブッダ、釈尊の語るところによって、 それを知っていただこう。
中阿含経という釈尊直説の経典で、釈尊はこう語るのである。
中阿含経「黄蘆園経」
しょうじょう
我已に是の如き定心を得、清浄にして穢無く煩無く柔軟にして書く
不動心を得、宿命 智通を覚りて作証しぬ。我行 有り相貌 有り、本
無量の経歴せる所を憶うに、謂く一生・二生・百生・千生・成劫・
・無量の成敗劫なり。 彼の衆生某と名づけ、彼昔更に歴ぬ。我曾て彼に
生じ、是の如き姓、 是の如き字にして、 是の如く生じ是の如く飲食し、 是の
如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿り、此に死して彼に生じ、彼に死して此に生じ、 我生じて此に在り、 是の如き姓、 是の如き字にして是の如く生じ是の如く飲食し、 是の如く苦楽を受け、 是の 如く長寿しの如く久しく住し是の如く寿りぬと。これを我その時初夜に
この第一明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し、修行し精懃
謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生
じ謂く宿命 智を作証明達しぬ。 また次に梵志、我巳に是の如き定
心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、 生死智
通を学び作証し、我清浄の天眼の人〔眼」を出過せるを以て、この衆生の
死時生時、 好色悪色、妙と不妙と、善処及び不善処に往来するを見、この衆 ぜんしょ
生の所作業に随いてその如真を見、若しこの衆生身悪 [行)、口・意悪行を
成就し聖人を誹謗し、邪見にして邪見業を成就すれば、彼これに因命終りて必ず悪処に至り地獄の中に生ぜん。 若しこの衆生身妙行、
意妙行を成就し、聖人を誹謗せず、正見にして正見業を成就すれば、 彼 これに因縁して身壊れ、命終りて必ず善処に昇り天中に上生せんと見 る]。 これを我その時中夜にこの第二明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠 離に楽し修行精動し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて面も明成り、 無明滅して而も明生じ、謂く生死智を作証し明達しぬ。 また次に梵志、 我巳 にの如き心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心 を得、漏尽智通を学び作証し、我この苦の如真を知り、この苦の習を知り、 この苦滅を知り、この苦滅道の如真を知り、この漏の如真を知り、この漏 習を知り、この滅を知り、この滅道の如真を知り、 我是の如く知 是の如く見、欲漏心解脱し、有漏・無明漏心解脱し、解脱し巳りてすな わち解脱を知り、生巳に尽き梵行巳に立ち所作巳に弁じ、更に有を受けずと 真を知る。これを我その時後夜にこの第三明達を得と謂い、本放逸無きを 以て遠離に住し修行精勤し、謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く漏尽智を作証し明達しぬ。
(読下しは「国訳一切経」を参照させていただいた)
わたし(釈尊は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだ れず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。 そのわたしがあ るとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。 第一禅定から第二、第 三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜 びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだ けとなった。
そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動で あった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていっ た。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生 生きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第一の智慧
