《灯火の名を呼ぶ者 ― 阿弥陀の名にすがりて》
風が冷たい谷を渡る夕暮れ、人里離れた山のふもとに、ひとりの老いた旅人が倒れていた。名を**信成(しんじょう)**という。かつては町の役人であったが、失政により人を傷つけ、名を捨ててさすらいの身となった。
「私は、取り返しのつかぬことをした……もう、生きる資格などない」
痛む足を引きずり、信成は岩陰に身を横たえる。胸に重くのしかかるのは、過ちの記憶、裁けぬ罪、そして孤独。
――そのときだった。
耳に、どこからか届く声があった。
「ただ、名を呼びなさい」
それは風の中の幻聴か、それとも遠い昔に聞いた誰かの言葉だったか。老いた心に、その言葉が、灯火のようにともる。
彼は、かすれた声で唱えた。
「なむあみだぶつ……」
もう一度。震える声で。
「なむあみだぶつ……なむ……あみ……だぶつ……」
すると不思議なことに、涙が溢れた。まるで、凍っていた川が、春の陽射しに溶けるように。苦しみが、ほんの少し和らいだ気がした。
その夜、夢の中に光が現れた。
光の中に坐す一人の仏。その顔は怒りでもなく、憐れみでもない、ただ、深い慈悲と静寂に満ちていた。
仏は微笑み、こう語った。
「そなたが名を呼ぶたび、我はそなたのそばにいた」
目覚めた信成は、頬をぬらす涙を拭わず、ただ、深く合掌した。
あの夜を境に、彼はどこか穏やかな目を持つ老人として、村人たちに慕われるようになった。朝には念仏を唱え、誰彼なく手を差し伸べ、静かに生を全うしていったという。
――その葬の日。
遠くの空に、蓮の花が咲いたという噂が村に広がった。
それはまるで、極楽浄土へと導かれる者の魂が、蓮に乗って旅立ったかのように。
「名を呼ぶ者は、必ず救う」
阿弥陀如来の誓いは、今もこうして、ひとりひとりの心の中で果たされている。
