そして最初期の仏教には「人として歩むべき道が釈尊によって単純に、素朴な形で説かれている」と語る。 そのうえで、人間は行為に関しては選択、決定をなす能力があるという視点から未来の問題を考えることが肝要だとし、そこで原則とすべきは「他の人を傷つけない」こと、すなわち「他人の身になって考えることであり、同情であり、共感的であり、愛情であるといえる。仏教ではこれを『慈悲』と呼んでいる」と述べる。 あたかも修行のごとき学問研究の果てに中村氏が辿りついた結論は、立場や考えが異なる人たちへの寛容の精神と慈悲の心であった。 40年近く前に書かれたものだが、2500年の歴史に耐えてきた釈迦の教えを底辺におき、現代の人間や社会のあるべき姿に厳しくも温かいまなざしをそそいだ本書は、これ自体が人生の指針となる経典のようでさえある。
さて現代。デジタルによって幸福になれると思い込んでいた人間が「デジタル社会は自分を縛る枷だと思い至った瞬間から、そこに身を置くことが苦しみとなり、そこからの脱出を願うようになる。それが、輪廻から逃れたいという釈迦の動機と重なります」と佐々木氏はいう。 一方で、ブッダの言葉とAIを組み合わせて現代人の悩みに答えるブッダボットの開発が進んでいる。今や全国の寺院から法話がYouTubeで配信されるようになり、私も「ながら聞き」することが日常となった。 伝え手や手法によって仏教は縦横無尽に表情を変える。受け手側の器も問われてくるだろう。今後デジタル社会が進んで仏教の垣根が低くなるにつれ、「釈迦の仏教」も新たな局面を迎えざるをえない。 ひるがえって、誰しもが歳をとり、老・病・死が我が事としてせまってこざるを得ない人間と同様、多くの環境問題や終わらない戦闘など、近代までは発展をし続けてきたかにみえるこの世界や地球も、どこか「生きる」ことに苦しみ、「老い」や「病」を抱え、「死」(自滅?)に向かっているとすら感じさせる。 人の心のありようで地球がどれだけ平穏を取り戻せるか。武力によらず説得のみによって広まった宗教は仏教だけと中村氏は語る。寛容と慈悲を選択や決定の原則とすれば争いが起こるわけもなく、執着や怒りや恐れなどからくる戦いもなくなる筈だ。 欲望を制御できれば環境破壊に歯止めをかけうるだろう。心が変われば世界が変わる。そこにもまた、釈迦の仏教の可能性は無限に広がっていると思われるのである。
