UA-135459055-1

のテーマ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

一、 身見(我見ともいう)

これには、二つの意義があります。

一つは、さきのアートマンのところでおはなしいたしましたように、「我」というものが、常 実在であると考える考えかた、これが身見です。 これはまちがいで、「我」は、五陰が因縁 によって仮合したものであるとする仏教の考え方が正しいのです。 まず、 この身見を断滅すると

つぎにもう一つは、「我執」 「我慢」という意味の身見です。 これは、我が身を主に、我が身を 中心にすべてを考え、行動する自己中心の考えです。

「二人のために、世界はあるの」という歌がありまして、結婚式に出るとよくこの歌を聞かされ ますが、それが、二人のために、ではなくて、自分のために、世界はまわっているというような 考えかた、この自己中心の考えかたをまず捨てることが、仏道修行の第一歩です。

よく、我がつよい、と申します。我がつよくて、おれが、おれが、というこころが先にたちま すと、どんなによいことを聞いても、学んでも、身につかない。こころを謙虚に、すなおに聞く という態度が一番たいせつです。わたくしは、昔から、我とは因縁のあらわれであり、因縁は我 にあらわれる、その人がどんな性癖を持っているか、それをみればその人の因縁がすぐわかる、

と申しておりますが、その性癖の中で、おれが、おれが、と自分をハナにかける性癖が一番よく ない。この性癖をとるところから、仏道修行がはじまるのです。

それは、あながち仏道修行だけではない。なんの道でも、クセをとるところからはじまる。 ス ポーツでも芸道でも、みなそうです。

小松原三夫さんという、ゴルフのコーチの名人がいます。 このかたはまさに、ゴルフのコーチ では名人ですが、このかたのところに、ある人が入門した。小松原先生が、

「ゴルフをはじめて、どのくらいになります?」

そうたずねた。

「二年ほどになります」

と答えるとにより

「ははあ、四年ほど損しましたな」

といわれたという。

つまり、二年間、我流のゴルフをやっていたから、その我流のクセをとるのに、四年かかると いう意味です。わたくしは、このはなしを聞いてたいへん感銘をうけたので、これを応用しよう かと思っています。修行したいという人がきたら、

「あなたおいくつですか?」

わたくし、五十歳です」

二、疑惑

三、戒取

「ははあ、百年損しましたな」(笑)たち

以上

です。

とにかく、クセという因縁を切るためには、我を捨てなければいけない。自分というものは五 陰の仮合したものであるから、どのようにでも変わることができる。 手におえない悪党でも仏に 変わることができる。 それにはまず、 悪党の)我を捨てなければいけない。

うたがいまどう、ということです。 なににたいして、うたがいまどうのか。仏陀の正しい教法 にたいして、です。

世の中には、ずいぶん疑いっぽい人がいまして、なんにでも疑ってかかる人がいる。 しかし、 この十詰の中の疑惑というのは、なんでも疑うという疑惑ではなく、釈尊の正法にたいして、疑 いまどうことをいうのです。釈尊の正しい教法にたいして、いっさいの疑惑を捨て、心の底から 信じてこれを仰ぐ。 これが、第二の、疑惑を断つ、ということです。

この取というのは、仏陀の正しい教法を理解せず、あるいは理解しようとせず、それ以外の

教え、たとえば道徳とか、仏教以外の宗教、そういったものを「ぜったい正しい」と信じて固執 することです。これを「取」という。は、い

因縁因果の道理と、業報の真理の上に立ち、これを解説して涅槃に至るという釈尊の教法にま さる宗教は、ほかにぜったいないのです。それを知らず、また知ろうとせず、低級な宗教や信

また、霊に関することは一切解決できない道徳の教えなどに固執して、「これが最高だ」とし ている不霊な態度、 これが戒取です。 そこにはまったく救いがありません。

夏を抱き

断じますと、さきに申しました須陀で、すでに聖者の流れに入っている。 まあ、天 となったり、人間となったり、数回くり返さなければならないが、涅槃に入ることはもう時間の 問題とされる。なによりもすばらしいことは、もはや二度と悪趣に落ちない、ということですね。 さて、 そこで、一つの問題が出てきます。

「三結」さえ断じていない名僧たち

以前、わたくし、或る霊能者に会って、こういう質問をうけたことがあります。 その霊能者と

と不満そうでした。

いうのは、まだ若く、その道では多少知られておりましたが、有名というほどではありませんで した。 その質問というのは、

「日本の仏教の宗祖、あるいは有名な高僧たちが、地獄に落ちて苦しんでいるすがたを霊視する んですが、これはどういうわけでしょうか?」

というのです。 わたくしは一笑にふして、を捨てなければいけない。

「それはあなたの見まちがいだろう。ほかの霊視については、あなたの力をみとめるが、このこ だけはおかしい。そんなことがあるはずはない。あなたの見まちがいだ」

「そうですかなあ、わたしはぜったいにまちがいないと思っているんだが、あなたにお聞き したらわかると思っていたんだが―」

かれは、かなりの霊視能力を持っており、わたくしの感心するような霊視もしてみせました が、これだけは同調できませんでした。かれは、高僧たちが如実に苦しんでいるすがたを見、声 も聞いた、と真剣でしたが、わたくしは一笑にふしたのでした。

しかし、これは、いまにして思えば、かれのことばに、もう少し真剣に耳をかたむけるべきで はなかったかと思うのです。

というのは、かれの霊視に、その可能性がないとはいえないのです。

十結の第二になんとありますか。 疑惑ですね。 これは、仏陀の正しい教法に疑いうこと、 とあります。日本の仏教の宗祖や、高僧たちは、釈尊の正しい教法を、疑い惑うどころか、これ を小乗として抹殺してしまった。疑い惑う以上、何倍もの説法の罪をおかしているわけです。 そ うして、たくさんの人たちに、釈尊のほんとうの教法にたいし、疑惑を持たせるようなことをし た。これはたいへんなあやまりです。)

それが、僧ならばたいしたことはない。影響力がないですからね。 しかし、高僧になるほ ど、信念がつよく、行動力がある。影響も大きい。高僧、名僧になるほど、地獄に落ちる可能性 が高いということになるのじゃありませんか?

もちろん、こういうかたがたは、人格高潔、才能ゆたかで、とにかく仏教を弘めたという大功 績が一方にありますから、 ぜったいに地獄になぞ落ちるということはあり得ないでしょうが、し かし、見かたによると、三結すら断じていないということになる。というのは、第三の、取に もひっかかるおそれがあるからです。すると、これらのかたがたは、聖者にもなっていないとい うことになる。それだけではない。須陀道になれなければ、悪に落ちる恐れがあるのです。 経 文になんとありますか。 「断じて悪に堕ちず」とあります。三結を断じてはじめて悪趣 に落ちないようになるのだから、三結を断じて須陀になれなければ、悪趣(地獄・餓鬼・畜生) に落ちる恐れがあるわけです。これはたいへんなことですね。

まあ、これは、釈尊のお説きになった阿含の立場からいうとそうなる、ということで、あまり 気になられては困りますが、阿含宗の成仏法、準胝尊千座行法をやっている諸君は安心です ね。 一生けんめいやっている連中は、疑惑も取もほとんど断じている。

ただ、どうも、第一の身見が残っている人たちが多い。我のつよい人がすくなくない。

これは、他の宗教の人たちと、ちょっと逆になっているところがある。よその宗教の人たち は、「我をなくせ」「我をなくせ」といわれて、修養するから、 我のなくなった、 すなおな人がじ つに多い。修の積んだりっぱな人をよく見かけます。

そのかわり、第二、第三でみな、聖者になれない。わが宗では、第二、第三はほとんど断じて いる。ただ、第一の身見の断じかたが足りない。我がつよいところがまだ少し残っている。これ 断じられたら、みな、須陀道だ。みんな預流で、聖者の流れに入る。ここにいる諸君みな聖者 です。これだけの人がみんないっせいに歩きはじめたら大行進ですね。ひとつわが教団のテーマ 音楽を「聖者の行進」にしましょうか(笑)。

つぎにまいりましょう。

五瞋恚

いかりです。

阿羅漢を小乗としたカラクリ

これは本能的な欲望のむさぼりです。 妊欲・食欲・睡眠欲(怠惰)等、いやしい低級な本能に もとづくところの、のむさぼりです。 要するに、五欲をもとにした、欲望のむさぼりです。

しかしこれは、ただたんに腹を立てる、というような感情的なものだけではなくて、自分の思 う通りにならないことにたいしすべていかりを発する愚のこころです。愚癡というのは、因縁 因果の道理のわからないことで、ほんとうに因縁因果の道理がわかったら、そうむやみに腹を立 て、いかりを発することはできません。 」

ひどい目にあわされた、といって相手のことを一方的にわるくいう。 はなしを聞いてみると、

自分が相手にたいして欲ばりすぎて、大もうけをしようといううまいはなしに乗っかって、それ で損をした。

「あいつはわるいやつだ。 どろぼうよりもわるい」

なぜどろぼうよりもわるいやつに金を出したのかというと、自分がはたらかないでうんともう かる、というようなうまいはなしに、乗っかってしまったわけです。

そんなうまいはなしがあるはずない。そんなうまいはなしがきたら、マユにツバをつけてじっ と考えてみればよい。 すぐわかる。それが、歌が先に立ってしまうから、「一口十万円出せば、 翌月から五万円ずつ、毎月配当する」といわれて、「一口十万円で五万円、十口だと五十万円、 百口だと五百万円、これはいいぞ」というんで、あり金残らずかき集め、その上、友人知人、サ ラ金からまで借金して、相手にわたす。最初一回か二回は配当をくれるが、そのあとはナシのツ ブテ なんにもいってこない。あわてて飛んでゆくと行方不明、あわてて警察に訴えて出て、つ かまえたところで一銭も返っては来やしない。

一番わるいのは自分の。それを考えたなら、まず反省するのが先に立って、腹が立つのはそ のあとになるはずです。 ところがそういう人に限って、ぜったいに反省しない。 自分が損をした のは相手がわるい、世の中がわるい、釈迦がわるい(笑)などというところまで発展してしまう。 だから、これを、愚かでだという。この職は、因縁因果の道理にくらいことをいうので、

これをいましめるわけです。

六、色 貪

七 無色食

これから、五上分結に入ります。 もうすでに、聖者となり、阿那合にまで到達したひとたちが 修行の対象とするものですから、非常に高度なものであり、その境界に達したものでなければわ かりません。かんたんに解説しておきます。

色の色は、いつもいうように、物質のこと。 色情のむさぼりではありません。物質世界に たいする欲望です。前の欲は、本能の欲望のむさぼりですが、この色は、物質世界にたいす むさぼりです。物質にたいする欲望は、すべて色になります。

これは、精神世界にたいする欲望

色はまだ切れるが、この無色食のむさぼりは、切るのが非常にむずかしいとされています。 どういうものかといいますと、たとえば、釈尊のようなおかたでも、最初、この無色をおか していたのではないかと、わたくしは思います。釈尊は、六年間、「麻麦の行」をされて、何度 死ぬほどの苦行をされた。なんのために、そんな苦行をされたのか。「さとりをひらきたい」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

ntt

コメントを残す

*