にして徳を積めばよいのか?」
と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうすることで初めて、法話の 内容が自分のものになります。 法話の内容を観察工夫すること、これが観です。
さてこれで、完全な優婆塞になるための条件は、信・戒・施・聞・持・観と六つになりました が、それでもお釈迦さまは、まだ足りないとおっしゃいます。
まだ、なにが必要なのでしょうか?
自利の八法
而不随順知法次法向。是則不具。以 不具故精勤方便。 信戒施聞。 受持観 察了達深義。随順行法次法向。 摩訶 男。是名満足一切種優婆塞事。 摩訶 男白仏。世尊。云何名優婆塞能自安
不安慰他 仏告摩訶男。 若優婆塞 能自立戒不能令他立於正戒。自持净 戒。不能令他持戒具足。 自行布施。 不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙 門。不能他令塔寺往見沙門。自 専聴法。不能勤人楽聴正法。聞法自 持。不能令他受持正法。自能観察甚 深妙義。不能劾人令観深義。自知深 法能随順行法次法向。不能励人令随 順行法次法向。摩訶男。如是八法成 就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他。
- 現代語訳
じゅしゃ
ぎょう
ほうほうこう
「而も法次法向に随順して知らざるは、是れ則ち具せざ るなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。 信戒もて 聞き、受持し観察し、深義を了達し、法次法向に随順
りょうだつ
いっさいしゅ
して行ず。 摩訶男よ、是れを一切種の優婆塞事を満足す
あんに
「と名づく」と。 摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が 優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞能く、自ら戒
こんりゅう
に立つも他をして正に立たしむることわず。自ら 浄を持つも他をして持具足ならしむること能わず。 自ら布を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詰 ていて門を見せしむること能わず。 自ら専ら聴法す
らくちょう
も、人を勧めて正法を楽せしむること能わず。 法を 聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深 義を親しむること能わず。 自ら深法を知り能く法次法 向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順 して行ぜしむること能わず。 摩訶男よ、是の如き八法成
じんぼう
就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名
づくり」と。
もっぱ
「信・・・聞・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなければ、
真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」
と説かれました。
解説
3施
マハーナーマは仏さまに質問しました。
「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」
仏さまはマハーナーマに告げられました。
「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。
マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」
お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。
満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。
それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。
信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす
・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい
けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる
を積むために布施の行をする
・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く
6持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する
6観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する
6法次・・・法に近づく
8法向・・・法を追及していく
なのです。
お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。
ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、
「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」
と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。
それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰
させることはできない、とおっしゃっております。
○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない
○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない
○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない
○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない
○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない
○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない
○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない
自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない
要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ
自利利他の十六法
摩訶男白仏。世尊。優婆塞成就幾法 自安安他 仏告摩訶男。若優婆塞成 就十六法者。是名優婆塞自安安他。 何等為十六。摩訶男。若優婆塞具足 正信。 建立他人。自持浄戒。亦以浄 戒建立他人。自行布施。教人行施。 自詣塔寺見諸沙門。亦教人往見諸沙 門。自専聴法亦教人聴。自受持法。 教人受持。自観察義教人観察。自知 深義随順修行法次法向。亦復教人解
阿含経
なんち
摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、優婆塞はの法を成就 自ら安んじ他を安んずるや」と。仏、摩訶男に告げた まわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆 自ら安んじ他を安んずと名づく。何等を十六と為す。 摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し、 自ら浄戒を持し、赤浄戒を以て他人を建立し、自ら布施 を行じ人にを行ずるを教え、自ら塔寺に詣で諸の沙 門に見え、本人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら 専ら法を聴き、本人に聴くを教え、自ら法を受持し、人 に受持するを教え、自ら義を観察し、人に観察するを教 え、自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た
了深義。随順修行法次法向。 摩訶男。 如是十六法成就者。是名優婆塞能自 安慰安慰他人。 摩訶男。 若優婆塞 成就如是十六法者。彼諸大衆悉詣其 所謂婆羅門衆。 利利衆。 長者衆。 沙門衆。於諸衆中威德顕曜。譬如日 輪。 初中及後光明顕照。 如是優婆塞 十六法成就者。 初中及後威徳顕照。 如是摩訶男。若優婆塞十六法成就者。 世間難得。仏説此経已。 釈氏摩訶男 聞仏所説。 歓喜随喜。 即従坐起作礼 而去
と。
現代語訳
阿含経切事
マハーナーマは仏さまに申し上げました。
だいしゅことごと
人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するた 摩訶男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞
摩訶男よ、 能く自ら安慰し他人を安慰すると名づく。 若し優婆塞の是の如き十六法を成就する者は、彼の諸 利 大 悉く所にするなり。調婆羅門衆、
しゅちょうじやしゅしゃもんしゅ
にちゃん しょうゆう
長者、沙門衆んじゅちゅう 威徳顕曜せん。
えば輪の初中及び後に光明細照するが如く、是の 優婆塞の十六法成就する者も、初中及び後に威徳顕 せん。是の如く摩訶男よ、若し優婆塞十六法成就する 者は、世間に得難し」と。仏此の経を説き已りたまいし に、釈氏摩訶男、仏の説かせたまえるを聞いて、飲喜し し従り起ち礼を作して去りき。
「世尊よ、いくつの法を成就する優婆塞が、 自分を安んじ他を安んずる優婆塞なのでしょう か?」
優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安んじ他を安んずる優婆塞です。 では、十六法とはど のようなものでしょうか?
とくけんよう
マハーナーマよ。自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 自分が浄戒 を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。 自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。 自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えるこ とを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも説法を拝聴することを教え る。自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。 自分が仏法の深義を観察すると 共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追 求すると共に、他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 マハーナーマよ、このように十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める 優婆塞というのです。
マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣 するようになります。 その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門 たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。 ち ょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成 就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。 ◎四五
マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」
マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。
お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、優婆塞は幾の法を成就し自ら安 じ他を安んずるや」と質問をしました。
ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。 なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。
たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。
そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」
という意味になります。
その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を
「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、
「優婆塞は十六法を成就すると、自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」
という意味です。
それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。
自ら正信を持つ
2他の者にも正信を持たせる
3自ら浄戒を保つ
阿含経一切
他の者にも浄戒を保たせる
5自ら布施の行をする
6他の者に布施の行を教える」
自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く
他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える
9沙門から聞いた教法を自ら受持する
他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える
自ら教法の深養を観察する
他の者に教法の深義を観察することを教える
自ら法に近づく
4他の者に、法に近づくことを教える
自ら法を追及する
となります。
います。
河合
他の者に、法を追及することを教える
要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だ、というわけです。
したがって、「一切事経』のこの部分は、
「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」
ということを証明しています。
正信を広める
もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。
その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勤め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな ます。
だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。 他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて
わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗の立宗を決意しました。もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。 自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。
ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。 だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、 阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。
お釈迦さまは十六法において、
「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」
とおっしゃっておりますが、この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。お経というものには、大切な言葉がさり気なく説か
れていることがよくありますが、これもその一つです。
なぜ、「正信を具足して」という言葉がそれほど大事なのか?
お釈迦さまが「正信を具足して」と明言されたということは、 正信でない仏教もあるというこ とになるからです。もしも、正信ではない仏教が存在しないのならば、「正信を具足して」など とわざわざ説かれるはずがないでしょう。お釈迦さまは、 正信ではない仏教が登場することを予 見しておられたからこそ、「正信を具足して」 とおっしゃったのです。
このことについて、わたくしは『輪廻する葦」(平河出版社)の中で、お釈迦さまの予言として 挙げていますので見てみましょう。
最も古い経典は、釈尊の予言として、次のようにつたえている。
『ビクらよ。 未来世にビクどもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典 は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それら が説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しよう という心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると は考えないであろう。
これに反して文芸人によってつくられ、詩文調であり、文辞麗わしい諸経典は、外道に由 来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれるときに、かれらはよ く聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、
受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。
かくのごとくにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、 出世間のものであり、空 と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。
ビクらよ。それ故にここでこのように学ぶべきである。 「如来の説かれた、深遠にし 意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれるときに、われらは よく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。 それらの教えを、受持 すべくよく熟達すべきものであると考えることにしよう」と』(中村元著『原始仏教の思想』 下)
まさに、この釈尊の予言の通りのことが起きたのである。
釈尊の説かれた教法とまったくちがう教えをのせた経典が、つぎつぎとつくられ、さも真 実の釈尊の教えであるかのようによそおわれて、世の中に広められた。
それを広めるために、釈尊のほんとうの経典は、低級で幼稚な教えときめつけられて、世 の中から抹殺されてしまったのである。
だれがそのようなことをしたのか?
「大乗仏教」と称する経典の作者たちと、その信奉者たちである。
では、その大乗仏教とはどういう経典か。
ようじゅきまいにちきこんにちは 般若経、華厳経、妙法蓮華経、涅槃経、観無量寿経、大日経、金剛頂経等である。 抹殺された釈尊のほんとうの経典とは、どういう経典か?
