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修行者を進歩させる聞・持・観

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しましょう。 しかし、その人がチラシをまくのをやめて、チラシまきをしていた時間だけアルバ イトを行い、それで得たお金の一部を阿含宗に寄付して、残りを自分の懐に入れれば、自分も阿 含宗も得をするのではないだろうかと考えて、そのように実行したとしましょう。それで本当に この人は得をするかといえば、おそらく計算通りにはいきません。たとえうまくいったとしても、 計算で予想できる結果以上のことはできません。 そろばん勘定を離れ、欲得を抜きにして仏さま のために働くことによってのみ、奇蹟的なすばらしい結果が得られるわけです。

チラシまきや護摩木判押し、布教伝道などの時間を商売などに使う方が自分にとってプラスに なるだろう、というようなこざかしいことを考えて行動しても、うまくいくわけがないのです。 嘘だと思うならばやってごらんなさい。 最初はうまくいったように見えても、三年後、五年後、 十年後を見てみると、決してうだつは上がっていません。 わたくしは、何人もそういう人を見て おります。いや、わたくし自身も昔はそうだったのです。けれども仏さまの教えに目覚め、損得 抜きに生きてきたおかげで、ひとかどの成功を得ることができました。

みなさんも損得勘定を捨てなさい。少なくとも、仏さまのお手伝いをする、あるいは仏さまを 礼拝する時は、 そろばん勘定を捨ててやってごらんなさい。そして、本業にも精を出してごらん なさい。そうすれば、必ずすばらしい結果を導き出すことができます。これは、お経に書いてあ るからいっているのではなく、わたくしの経験からお話ししているのです。わたくしを信じて、 そろばん勘定を離れて純真に仏さまのために尽してごらんなさい。 絶対に道は開けるのです。

修行者を進歩させる聞・持・観

不能随時往詣沙門聽受正法。是則不 具。以不具故精勤方便。随時往詣塔 寺見諸沙門。不一心聽受正法。是不 具足。信戒施聞修習満足。聞已不持。 是不具足。以不具足故精勤方便。随 時往詣沙門專心聽法。聞則能持。不 能観察諸法深義。是不具足。不具足 故精勤方便。 信戒施聞。 聞則能持。 持已観察甚深妙義。

  • 現代語訳

ずい

ごんぼうべん

もんしゅじゅうまんぞく

じん かんざ

ちようじゅ

「随時に門に往して正法を愛することわざる は、是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精 動方便し、随時に塔寺に往詣して諸の門に見える。 心に正法をせざるは、是れ具足せざるなり。信戒施

聞修習 満足す。聞きりて持たざるは、是れ具足せざ るなり。 具足せざるを以ての故に精勤方便し、随時に沙

せんしん ちょうほう

すなわ よじ

門にして心に聴法、聞けば則ち能く持す。諸法

の深義を観察することわざるは、是れ具足せざるなり。 具足せざるが故に精勤方便し、信戒し、聞けば則ち じんじん みょうぎ 持して甚深の義を観察す」

「もろもろの都合をつけて、おりあるごとに出家のところへ参詣し、正法を拝聴しなければ、真 の優婆塞とはいえません。 努力と工夫を重ねて出家のいる塔寺に参詣し、 沙門の教えを受けなさ

い。この修行を聞といいます。 一心に正法

しかし、拝聴するだけでその内容を身につけなければ、やはり真の優婆塞とはいえません。で すから、おりあるごとに出家者を訪れ、専心して説法を拝聴し、聞いた内容をよく身につけて保 ちなさい。これが持の修行です。

諸法の深い意味を観察する修行を観といいますが、この観がなければ、やはり真の優婆塞とは いえません。努力と工夫を重ねて、信戒・施・聞の修行を行い、聞で学んだことを持の修行で よく保ち、保った内容の深い意味を観察して、観の修行を実践しなさい」

さて、お釈迦さまは今までのところで、完全な優婆塞になるには信・戒・施が必要である、と 説かれました。信とは仏・法・僧の三宝に対して信仰の心を持つこと、戒とは浄戒を保つこと、 そして施とは布施をすることですが、この三つが仏道修行の根本となる三大原則です。 この三つ のない仏道などあり得ません。この信・戒・施が仏教の核である、といえます。

しかし、お釈迦さまは、この三大原則を備えてもまだ完全な優婆塞とはいえない、とおっしゃ っております。

「沙門に往詣して正法を聴受することわざるは、是れ則ち具せざるなり」とありますが、これ 沙門のいるところ、つまり、道場(精舎)にお参りに行って、お釈迦さまや僧侶から、正しい 仏法を聞かなくては、信・戒・施を備えていても十分とはいえない、ということです。ですから

お釈迦さまは、せっせと道場に足を運んで法を聞きなさい、と説いておられるのです。 これは、みなさんも同じことです。

あなたがたも道場に来て、いろいろな教えを聞かなければいけません。なぜならば信・戒・施 だけでは、いくらやっても進歩しないからです。たしかに信戒・施は仏教の三大原則ですが、 修行者として進歩するためには、教えを聞かなければいけません。 最低でも毎月の例祭には参加 して、わたくしの法話を聞くことが肝心です。 例祭に出られなかったならば平日でも土日でもよ いから時間をつくって道場にお参りし、ビデオでその月の法話を聞くことが必要です。 これをや らなければ進歩しません。

それはなぜでしょうか?

教えを聞かないと独断的になるからです。 ついつい、自分勝手な判断をするようになってしま います。

「これはこうだから、こうに違いない」

てんじょう のぞ

と非常に視野が狭くなってしまうのです。もっと別の角度から大きな視野で見なければいけな いのに、自分の勝手な判断しかできなくなってしまいます。

くだ もつ てんうかが

『荘子』の「管を以て天を窺う」という言葉が元だと思いますが、昔の「いろはがるた」に「葦

の髄から天井を覗く」というものがありました。 葦の髄とは、葦の茎の部分のことで、 これは、 ちょうどストローのように中が空洞です。 その葦の茎の穴から天井を覗いて見るならば、どれほ 広い天井でも、茎の穴の広さだけしか見えないという意味です。 それと同じで、わたくしの法 話も聞かないで、自分勝手に物事を判断して、

「あれがおかしい、これが変だ」

とぶつぶついっている人は、まさにこの「葦の髄から天井を覗く」なのです。

ですから、毎月の法話は必ず聞く。これは修行者として正しく成長する上で非常に大切なこと です。

「精勤方便し、随時に塔寺にして諸の沙門に見える。 一心に正法を受・・・・・」とあるように、 時間の許すかぎり塔寺、つまり道場に足を運び、もろもろの沙門にお会いしてお話を聞きなさい それも一心に聞きなさい、というわけです。

この、道場へお参りに行って法話を聞くことが、 です。 あるいは、「往詣して」 とあります から、参拝するという面を強調して詣と呼ぶ場合もあります。

時々、例祭に出られないからと平日に道場に来て、勤行だけをさっとやって、終わるとすぐに 帰っていく、という人がいます。 行はもとより、ビデオで法話を学ぶことなどまったくしませ ん。ただ、勤行をするだけです。これでは聞にならないだけではなく、本当の意味での詣にもな りません。

そのような人は仕事やなにかで忙しくて、法話を聞く余裕さえないのかもしれませんが、やは 例祭に出られなかった場合には、違う日に道場へお参りして一生懸命に勤行すると同時に、法 話をビデオで学ぶことが大切です。あるいは例祭に出ている人も、もう一度勉強のために道場に ビデオを見ることが大切です。 「随時に塔寺に往詣し」とあるように、道場にお参りするの は時間の許すかぎり何回でもかまいません。 別に、お参りは月一回だけという決まりはないので

すから、余裕があれば何度でもお参りして、できるだけ法話のビデオを観ることが大切です。 次に、お釈迦さまは、「専心に聴法し、聞けば則ち能く持す」、とおっしゃっております。人に よっては耳の痛いことかもしれませんが、これは、法話を聞くと同時にそれを受持しなさい、と いう意味です。早い話が、法話をいくら聞いても、聞いただけで、右の耳から左の耳へ抜けてし まうのではだめですよ、それを常に保たなければいけませんよ、とおっしゃっているわけです。 法話を聞いて、

「なるほど。こうしなければいけないのか。こうなのだな」

と思ったならば、それを受持しなければいけません。お経には持と書いてありますが、要する に聞いたものは落とさずに持っていなさい、ということです。さらに、持は、実行するという意 味でもあります。

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまはじつにやさしく、誰にでも分かるようにお話を されます。難しいことを難しく説明するのは簡単です。難解なことをやさしく説くというのが、 いちばん難しいのです。お釈迦さまの説法はまさに名説法です。

さて次に、「諸法の深義を観察することわざるは、是れ具足せざるなり」とあります。これ は、法話を聞いたならば、その意味について観察・工夫をしなければいけませんよ、という意味 です。

法話というものは、聞いてただ暗記するだけでは、本当の意味で自分のものにはなりません。 受持すると同時に、たとえば、

「徳を積みなさいといわれたけれども、徳を積むとはどういうことなのか? 自分はどのよう

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