修行の根本となる信
摩訶男白仏。世尊。云何為満足一切 優婆塞事。仏告摩訶男。若優婆塞有 信無戒。是則不具。当勤方便具足浄 戒具足信戒。
まんぞく
いつさいうばくじ
摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、何が一切優婆塞事を
満足すと為すや」と。仏、摩訶男に告げたまわく、「若
しんみ か
すなわ
優婆塞信有り無くば、是れ則ち具せず。当に勤方
べん じょうかい
しんかい
便浄を具足し信戒を具足すべし」
- 現代語訳
と。
- 解説
阿含経
マハーナーマは仏さまに申し上げました。
「世尊よ、完全な優婆塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」
仏さまはマハーナーマに告げられました。
「その者に信があっても戒がなければ真の優婆塞とは呼べませんから、精進して浄戒を守って、 信と戒の両方を身につけなさい」
さて、マハーナーマはお釈迦さまのお答えをうかがってから、「世尊よ、云何が一切優婆塞事 を満足すと為すや」と再び質問しました。
さきほどのマハーナーマの質問に対して、お釈迦さまは、
「仏の前で、私は死ぬまで仏・法・僧の三宝に帰依いたしますから、優婆塞として私をお認めく ださい、といえば優婆塞になる」
とおっしゃいましたが、これは要するに形式上のことです。 深い中身については触れておられ ません。ですから、マハーナーマは優婆塞事を満足するには、どうすればよいか、つまり、 「完全な優婆塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」
と、再び質問したわけです。
すると、お釈迦さまはマハーナーマに、「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。 当 に勤方便し浄戒を具足し信戒を具足すべし」と答えられました。 これは、
「その者に信があっても戒がなければ、満足な優婆塞と呼べないから、精進して浄戒を守って、 信と戒の両方を身につけなさい」
という意味です。
優婆塞になった以上、必ず信はあるはずです。 もしも、仏さまの教えを信じる気持ちがなけれ ば、なにも仏さまのところへきて、自分は仏・法・僧に一生帰依いたします、と誓うわけがあり ません。ですから、 優婆塞であるからには、仏・法・僧を信じ仰ぐ、という心は必ずあるはずで
宗教においては信がいちばんの根本です。 これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。 この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、と いう気になるのです。 そこで優婆塞になる。
皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経な のだと思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説い てくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分と の間に血が通うわけです。
浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三-二二六二)は、
「仏は親鸞一人がためにこの経阿弥陀経』)を説き拾う」
というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説き になられたのだと確信しながら、親鸞上人は「阿弥陀経』をお読みになったとされておりますが、 これが本当のお経の読み方です。
「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか
というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経 に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。
「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」
そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。
はくいんぜんじ
わたくしは臨済宗 中興の祖と謳われる白隠禅師(一六八五一七六八)の施行歌』を初め 読んだ時に、親鸞上人と同じような気持ちになりました。 まだ二十代でしたが、そのころのわ たくしは病気を患って、やりたいと思う仕事もできず、病気が回復しても事業がうまくいかずに、 日々悩み苦しんでいました。 友人たちはどんどん出世し、自分だけが取り残されていく中で、 「才能のあるおれが、どうして世の中に出られないのだ。あいつだって、こいつだって、おれよ りは決して頭はよくない。ああいう連中が世の中にどんどん出ていくのに、おれがうまくいかず に貧乏をするのはどういうわけだ。世の中というものは、本当に目がないやつらばかりがそろっ 「ている」
と考えて、いつも不平不満ばかり言っていたのです。
その「施行歌』の、
こんじゅうふうき
ほどこ
そのような時です、 白隠禅師の『施行歌』を読んだのは。
富貴する人は前世に蒔く種がある
今生せぬ人は 未来はきわめて貧なるぞ
利口で富貴がなるならば純なる人はみな貧か
利口で貧乏するを見よ
此世は前生の種次第 未来は此世のたね次第・・・・・・」
という部分を読んで、頭をガツンと殴られたような気がしました。
宗教においては信がいちばんの根本です。 これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。 この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、と いう気になるのです。 そこで優婆塞になる。
皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経な のだと思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説い てくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分と の間に血が通うわけです。
浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三-二二六二)は、
「仏は親鸞一人がためにこの経阿弥陀経』)を説き拾う」
というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説き になられたのだと確信しながら、親鸞上人は「阿弥陀経』をお読みになったとされておりますが、 これが本当のお経の読み方です。
「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか
というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経 に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。
「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」
そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。
はくいんぜんじ
わたくしは臨済宗 中興の祖と謳われる白隠禅師(一六八五一七六八)の施行歌』を初め 読んだ時に、親鸞上人と同じような気持ちになりました。 まだ二十代でしたが、そのころのわ たくしは病気を患って、やりたいと思う仕事もできず、病気が回復しても事業がうまくいかずに、 日々悩み苦しんでいました。 友人たちはどんどん出世し、自分だけが取り残されていく中で、 「才能のあるおれが、どうして世の中に出られないのだ。あいつだって、こいつだって、おれよ りは決して頭はよくない。ああいう連中が世の中にどんどん出ていくのに、おれがうまくいかず に貧乏をするのはどういうわけだ。世の中というものは、本当に目がないやつらばかりがそろっ 「ている」
と考えて、いつも不平不満ばかり言っていたのです。
その「施行歌』の、
こんじゅうふうき
ほどこ
そのような時です、 白隠禅師の『施行歌』を読んだのは。
富貴する人は前世に蒔く種がある
今生せぬ人は 未来はきわめて貧なるぞ
利口で富貴がなるならば純なる人はみな貧か
利口で貧乏するを見よ
此世は前生の種次第 未来は此世のたね次第・・・・・・」
という部分を読んで、頭をガツンと殴られたような気がしました。
なるほどたしかに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、 愚かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上 がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。
「お前がチャンスに恵まれない理由が分かるか? それは、徳がないからだ。人が成功をつかむ には才能だけではだめだ。 徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、 成 功をつかむことはできない。 では、徳を得るにはどうすればよいのか? 布施をせよ。 布施をす れば徳はいくらでも出てくるのだぞ」
まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。 そして、白隠禅師は、三百年後に現われるわ たくしのために、この『施行歌』を書いてくださったのだな、と確信しました。
正しく信を育てる戒
ないのです。
あなたがたもこの『一切事経』を、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説いたお経だ、 と考えるようではいけません。「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に勤方便し 浄戒を具足し信戒を具足すべし」とは、
「信があっても我がなければいけないのだよ。おまえは戒を保っているか?」
とお釈迦さまが、今、自分に直接問いかけてくださっている言葉なのだ、と思わなければいけ
阿含宗信徒諸君は解脱宝生行を一生懸命に修行しています。 このような修行をするからには、 信は必ずあるはずです。お釈迦さまの法を信じよう、お釈迦さまの成仏法を信じよう、と考えた からこそ入行したわけです。
ところが、信じただけではだめだぞ、とお釈迦さまは論されていらっしゃる。
入行して三ヶ月あるいは半年経つと、職員や先達のところにいろいろな不平をいってくる人が います。
「こんなに信仰しているのに、全然よくならない。 こんなに信じていて、一生懸命に修行をして いるのに、よいご利益がまったくない」
そういう声を聞きます。
しかし、お釈迦さまは、信じるだけではだめだぞ、とおっしゃっているわけです。たとえば、 阿含宗に入って、毎日、一生懸命にご宝塔に供養を捧げ、お経やご真言を読誦する。 これは信で す。それらを実行するわけですから、たしかに信はあるわけです。 しかし、お釈迦さまは「信」 だけではだめだ、「戒」が必要なのだとおっしゃっています。
「戒」には、二つの意味があります。 一つは修行者としてやってはいけないことの取り決め、も う一つは修行者としてやらなければいけないことです。
ところが、これをひっくり返している人が多い。やらなくてはいけないことをまったくしない で、やってはいけないことをせっせせっせと行う・・・・・・。 それでいて、
「こんなに信じているのに!」
かれております。
いわん
阿含経
なぜならば、布施によって初めて徳が生じるからです。 信を持ち戒を保つということは、自分 だけのことをやっているにすぎません。 自分にとってプラスになることだけをやっているわけで す。 一方、他の人になにかを施すということは、他の人にプラスを与えることになります。
どのような難行苦行であっても、自分のことばかりを考えていたのでは、徳は生まれません。 他の人になにかを与えてこそ、自分の身に徳が生じるのです。人間というものは、徳がなければ なに一つ成功させることはできません。 これは、仕事でもなんでも同じです。
わたくしはいつも、
「人の不幸の元凶は因縁である。その因縁を切る成仏法を実践することによってのみ、人は本当 の幸福を得ることができる」
と申し上げております。 しかし、不徳の身では、その成仏法でさえやり通すことができないの です。徳があってこそ、修行は順調に進みます。 徳がなければ、因縁を切る修行でさえも途中で だめになるのです。修行に嫌気がさしたり、経済的に不如意になったり、あるいは周囲の者が意 味もなく反対します。 とにかく、うまくいかなくなってしまうわけです。
さきほど、白隠禅師の『施行歌』についてお話ししました。わたくしはこれを読んで、 徳の大 切さを初めて身に染みて感じました。『施行歌』とは、布施の行の大切さを分かりやすく民衆の
ために説いたものですが、その中に、
「富貴に大小ある事は蒔種大小あるゆくぞ
この世はわづかの物なればよい種ゑらんでまきたまへ
たねを惜みてうへざれば 穀物取たる例なし
田畑に麦神ずして麦ひへ取たるためしなし
いっしょう
むぎひへ壱升まきをけば 五升や壱斗はみのるぞや
れば少しの施しも 報は倍あるものぞ
や施し多ければ くわほうも多しとりしれ」
という言葉があります。 わたくしは、これはまさに真理だと思います。
功徳の種をまかずに、徳の実が実るはずはありません。 功徳の種を少しでもまくならば、必ず それよりも大きな徳の実を得ることができるのです。 功徳の種をまく、これこそが布施の行なの です。
