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身命経

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ヴァッチャ姓の出家は仏さまに、

しょせつ

仏の所説を聞き、飲喜し随喜し、全従り起ちて去りき。

「ゴータマさんは、常恒不変の)霊魂と身体は同じものかと問われれば『無記である』と答え、 霊魂と身体は別々なのかと問われてもやはり『無記である」と答えられます。ではなぜ、沙門ゴ ータマさんはご自身の弟子の死に際して、『だれそれはあそこへ生まれ、まただれそれはこうい うところへ生まれた。かの諸々の弟子たちはこのように命終わって身を捨て、すなわち意生身 (心だけの身体)に乗じてどこそこに生まれた」とおっしゃるのですか。 これは霊魂と身体は別々 だということではないのですか?」

と申し上げました。仏さまはヴァッチャ姓の出家に

「これは依るところがある者は生まれ変わると説いているのであり、依るところのない者は生ま れ変わらないのです」

と告げられました。そこでヴァッチャ姓の出家が、

「それはどういうことですか?」

と訊ねると、仏さまは、

「たとえば、火は依るところ(薪など)があるから燃えるのであって、依るところがなければ燃

えないように(人間も依るところがある者は生まれ変わるのです)」

と告げられました。するとヴァッチャ姓の出家は、

「いや、私は依るところがないのに燃えている火を見たことがあります」

と答えました。仏さまは、

「それはどういう火ですか?」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「たとえば大火が炎々と燃えさかっている時に、疾風が吹いて火が空中に飛んでいることがあり

ますが、あれは依るところのない火といえるのではありませんか?」

と答えました。仏さまは、

「風が吹いて空中に飛ぶ火にも依るところはあるのです。 依るところがないのではありません」 と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「ではゴータマさん、空中の飛火はなにに依って燃えているのですか?」

と訊ねました。仏さまは、

空中飛火は風に依っているから存在するのです。風に依って燃えているのです。だから依る ところがあるというのです」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

それでは)人間の場合では、命が終わると、意生身に乗じてどこかへ往生(輪廻転生)すると いうのは、どのような依りどころがあってのことでしょうか?」

と訊ねました。仏さまは、

「人間が、命終わって、意生身に乗じてどこかへ生まれるというのは、渇愛(タンハー)が因と なって執着し、渇愛が因となって(輪廻の世界にとどまるからであり、そのために依るところ があると説くのです」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「よろしいでしょう」

解説

「人間は願い求めるものごとに執着するという依りどころがあります。自分を取り巻くものごと に染まって心が囚われて)執着するという依りどころがあります。 ただ世尊(先生・尊い師)に おいてはそのような依りどころはなく、正しい悟りを得ておられます。

それでは) 沙門ゴータマさん、なにかと所用もありますので、これにて失礼したいと存じます」 と申し上げました。 仏さまは、

と答えられました。ヴァッチャ姓の出家は以上の仏の説法を聞き、大いに喜んで立ち去りまし

先にご説明した、お釈迦さまご在世当時の外道(仏教以外の宗教者)の指導者たちが唱えていた 「断見」と「常見」が、辞書にはどう説明されているのかをご紹介します。 引用は「佛教語大辞 典』によります。

【断見】だんけん 1世間および自己の断滅を主張して、因果の理法を認めず また人は 度死ねば断して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。 断 論生はこの世限りのものとし、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。 常 見の対

【常見】じょうけん 常住を主張する見解。断見の対。 世界は常住不滅であるとともに、 人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った見解。

「意生身」というのは、「心だけの身体」あるいは「死後、次の生命を受けるまでの中身 のこと」で、分かりやすくいえば霊体になります。

「余」とは、本来は残りという意味で、業が残っていることを意味しますが、このお経では

「依りどころ」という意味にも使われております。

「愛」 (tapha、タンハー)とは、砂漠で喉の渇きに苦しむ者がひたすら水を求めてやまな いような激しい欲望をいいますが、漢訳ではたんに「愛」としてしまったので、お釈迦さま 表現しようとしたイメージがまったく変えられてしまいました。 この愛がもとになって 執着が生じ、執着によって、輪廻転生 (迷いの生存)が生じるのです。

「世尊」 とは、 Bhagavat (バガヴァット)の漢訳であり、福徳を具えた者の意です。ヴェー ダ聖典においても、叙事詩においても、弟子が師に対して「先生」と呼びかける時の言葉で すが、仏教ではこれを採用して仏陀の尊称のひとつにしました。

さて、先に、ヴァッチャ姓の出家の「霊魂と身体は同じものか」「霊魂と身体は別々のも

のなのか」という質問に対して、お釈迦さまは、いずれの質問にも「無記である」と答えら れました。「無記」は「無記答」ともいいます。 記すべき答え無し。つまり、その質問には 答えるべき内容がない、あるいは適切な答え方が存在しない、ということでしょう。

それはなぜでしょうか?

ヴァッチャ姓の出家が考えている霊魂(命)とは、仏教の起きる二、三百年前に、ウパニ シャッドとバラモンの聖者たちが考えた「アートマン (ātman)」を下敷きにしたものだから です。このアートマンは、元来は、「気息」を意味しましたが、転じて、生命の本体として 「生気」「生命原理」「霊魂」「自己」「自我」の意味に用いられ、さらに、「万物に内在する霊 「妙な力」を意味するに至ったといいます。 要するに、個々の本体を表す術語と考えたらよい でしょう。 バラモンの聖者たちは、このアートマンを常恒不変の存在であると説いたのです。 そして、絶対者ブラフマンとアートマンの本質を悟り、梵我一如の真理を直観して、このプ ラフマンと合一する時、業は消滅し、アートマンは完全に自由になって、業に束縛されてい 輪廻から解脱するというのです。

これでは、「縁起論」のお釈迦さまに真っ向から否定されるのは当然です。

お釈迦さまの否定され

すべてのものが無常であって、縁により生じ、縁により消滅するとするお釈迦さまからみると、 絶対者のブラフマンも、常恒不変のアートマン(我・霊魂)も、その存在を認めることはできま せん。

そのように、霊魂あるいは自我に対する誤った概念を先入観・前提として持っている相手から の霊魂と身体に関する質問には、真っ向から答えることはできません。

そのために、『雑阿含経・仙経』では、お釈迦さまは、セーニャに対して、まず、その誤っ 概念(先入観・思い込み)を正すために、人間の存在を「五蘊(五陰)」という「身心のすべて を表す五つの要素」に分けて説明され、そのひとつひとつが無常なる存在であり、自分のどこに も絶対の実在というものはなく、したがってその五蘊が仮に寄り集まって存在する人間のどこに も、本体としての常恒不変の絶対の実在(アートマン)というものはない、ということを理解さ せるように説かれたのです。五つの要素とは、色(物質・肉体)、受(感覚) 想 (表象)、行(意 志 識(意識)の五つです。

自分の身心のどこにも絶対の実在というものがないのに、常恒不変のアートマン(霊魂)など あるはずがありません。 また、仮の存在であるのは人間だけではありません。 この世界のすべて が縁によって生起消滅している仮の存在であって、常恒不変の実在というものはないのです。 

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