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怪心とは自利だけの心

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OBIO
お釈迦さまは、
「それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちをっているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
次に、
「若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
すならば、そのような福徳が生じるのです。
怪心とは自利だけの心
文書比氏、当に神秘を行し、心有ること勿るべし。是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」
かわいかな
つっけん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる怪食とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを含といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪質で
す。よく「突怪負」などというでしょう。
「あの人は突怪貪だ!」
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪含の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪食です。
お釈迦さまは、怪食の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない
「水
とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利) 心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一阿含経・五品・有職品

 

わたくしは若いころに京都のおたのです。中の流行をしていましたが、そこで、自
なにりった行番に出会ったことがあります。四十、三原の発性した。自分でいうの
もなんですが、五社の強さのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしっとするような。すごい流行していたのです。
一、二月ごろの五経の後の後は、強だってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけです。水ならばとうの音に凝っているでしょう、音水を受けると、おろし
金で駅を明られるような気がしました。わたくしはその後十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに話を無さの強い大の時には、一週層、食を通っておくけました。新し
て寒中の席に入るなどというのは危険高まりないので、楽なら絶対にやってはいけないこと
ですけれども、わたくしはそれをやり通しました。
「四線を解放しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この行をやり通せ
ば、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。演度で流に入って無いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから。落に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、2日と続いて五日目を過ぎると、生きているのれど死んでいるのか、自分自身でも
分からないような状態になってます。
「の多い人なら死んだろうな。自分も
発売しない。しかし、これででたようならば、いしたことはできないだろう。生きるか死ぬかやってみようじゃな
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
以前は五社の滝とか鞍馬の奥山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
脱わった最後のころではないでしょうか。
お滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
おおはら3の
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大校や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
し、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「ああ、あの人は「般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から二月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗々と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。

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