仏が感応する利他心
阿含宗には護摩木勧進というものがありますが、これも同じです。
『護摩木を一本百円で売って、そのお金でお護摩を焚いて、いくらか儲けが残るだろう。その残
った分が教団の利益だ」
というようなバカなことを考えていては、お釈迦さまの弟子として仏法は説けません。たとえ
赤字になろうとも護摩木を勧進し、それをお焚き上げするのは托鉢の修行だからです。護摩木勧
進は護摩木托鉢なのです。多くの人から護摩木を勧進し、お釈迦さまの真の仏法がこの世の中に
あることを教えるためのものです。そのような心によって勧進して集めた護摩木を、お釈迦さま
の成仏法に基づいてお焚き上げするからこそ、お釈迦さまは感応してわたくしたちを救ってくだ
さるのです。
また護摩木勧進は、
「この尊いお護摩にお参りしなさい。来られなかったならば、星まつりの日に家で手を合わせて
拝みなさい。必ず功徳が得られるのです」
と教えるためのものでもあります。
利他心がなかったならば、仏法の修行というものは成り立ちません。
ですから、わたくしは、
「林のがり下がりをピタッと当ててお金を儲けて、それで人を救うのだ」
という経の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまっ二つ
だのは、普の人が詠んだ。
「
という件の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまったのです。そして、その時に頭に浮かん
だのは、昔の人が詠んだ有名な一首の道歌でした。
「富士の山ほどお金を積んで利息で慈善をしてみたい」
富士の山ほどお金を積んで(貯めて)も、その積んだ元金は出したくない。しかし、お金を積
んでおけば利息が出るから、その利息を慈善に回して、それで人助けをするという意味の歌です。
けれども、そんなものは人助けではありません。そういう人間にかぎって利息まで元金に乗せて、
さらにもっと儲けてから慈善をしましょう、ということになるのです。おそらくはさらに欲をか
いて、結局は慈善などしません。損などしたくないという気持ちでやるのならば、そんなものは
慈善でもなければ、利他の行でもないのです。
貧しくてその日の食べ物もない中から、たとえ一粒の米でも仏法のために供養をする。あるい
は、困っている人に差し上げる。その供養の心が自分自身を救う徳につながるのです。 自利を離
れた利他の行が、他人だけではなく自分をも救うわけです。利他行をやらなかったならば、餓鬼
界からは永久に解脱できません。
「食なき者に食をとう」ということは、考えようによれば首吊りの足を引っ張るようなものです。
しかし、布施をさせなければ、彼らは永久に餓鬼界から脱却することはできません。苦しい中か
ら布施をしてこそ、い業から逃れることができるのです。それを勧めるのが、それを教えるの
が仏道を歩む者の使命です。つまり、わたくしたちの役目なのです。
利他心がなければ、どれほど苦しい行をやったとしても、仏さまは感応してくださいません。
人間だって感心しないでしょう。わたくしも最初は、その行者の荒行に感心しました。けれども
食器・洋品
●五五
彼の順を聞いた途端に渡気が差しました。
人間が感心しないのに、仏さまが感心しますか?
おそらく感心するはずがありません。そのような心構えでは、彼が命落とすほどの滝行かし
ても、彼の順は仏さまに届かないでしょう。利他いがない人間がどれほど荒い行きしようと、ど
れはど戦しい性行をしようと、それは仏法ではないのですから。
しかし、彼にそういうことといってもしかたがないから、わたしは、
「はあ、そうですか」
といって引き下がったのです。
お求さまが『五戒品・四』において、
『広く施すという修行がおまえたちには欠けているぞ、広始の行をおまえたちはやっていないで
はないか」
とじっにしくおっしゃっているのは、わたくしたちのためなのです。この言葉はいたくした。
ちに対する、お釈迦さまのお叱りの言葉であると思わなければいけません。
もいいますが、わたくしたちがおとな時は、このお経は自分のために、自分一人のた
心に、さまがしてくださっているのだ、という気持ちでまなければいけません。そ
のような心をしいてんでいくことによって、おさまのおっしゃる言葉
自分一人のために、さまはこの法をかれたのだ」
そのよう持ちでんでいくと、おさまが好きになっている言葉、ひしひしとこち
「開き」では「五」の次の「有線品」で、その具体的な内容を示しております。
「領の市編
