集中″についていうと、知的能力は大まかにいって、それが使われる時の集中度に比例して効果的であると前にのべた。人間は自分の知的能力のほんの一部分だけを使っているにすぎないという事実からみて、実際の場面でもっと重視しなければならない。それは集中力である。
集中する能力は訓練することができる、宗教上の目的を追求する間に、インドの多くの宗派い引鯛づ到司。彼らのトレーニングについてはなんらの秘密もない。このテーマについてかぞ
えきれないほどの本が書かれている。
た超自然的な技術とみなされているのである』(傍線は著者)
まことにその通りである。ジョージーギャラップがアメリカの教育システムについて語ったことは、そっくりそのまま現代の日本にあてはまることである。現代の教育システムは、知能その
ものを直接高めるという技術、方法を知らない。間接的なものである。つまり、ものを教えこみ、おぼえさせるということが、知能を高めるという方法である。これは、ものをおぼえると同時に知的能力が高止るという一石二鳥式の理想的なものに思われるが、ひとつ重大な欠占いがあ
る。それは、ものをおぼえる能力のひくい者には通用し難いということである。ここに大きな矛盾がある。ものをおぼえさ廿ることによ‥で知能を鳥めるという方法は、ものをおぼえにくいも
のにとっては無力である。それがそのひとにといでの限厚だのだから仕様がないという考えは問題にならない。もちろん、だからといって私は現代の教百方法を否定しているのではない。もの
をおぼえつつ知能を高めてゆくという現代の教育方式は有川である。それはそれでその機能をはたさねばならない。しかし、もっと根本的に、知能の源泉、知能発生の場そのものに直接はたら
きかけてその能力を高めるという技術方法がなくてはならぬのではないかというのである。そうして高めた知能をもって高い知識を身につけ、それをさらにまた知能開発技術でより高める、このくりかえしである。
これが、オルダスーハックスリーのいう。学習や生活に役立つように頭を直接トレーニングする″ことである。
学習で頭をトレーニングするのではなく、直接頭をトレーニングして頭をよくしてから、(あるいは頭をよくしつつ)学習するのである。
つまり、頭をよくするための勉強をするのではなく、頭をよくしてから勉強する技術である。 いまの学習方法は間接的で、いうなれば、頭の組織を、ニューロンを、羽毛でかるくなぜまわしているようなものだ。だから、せっかくのニューロンをわずかニパーセントから五パーセントくらいしかっかえないのである。そんなプリミティブなものではなく、一四〇億の眠れるニューロンをわしづかみにして、ぐいぐいゆさぶり、目ざめさせていっせいに活動をはじめさせる驚天動地の方法はないのか。
そういう技術、方法こそ、ジョージーギャラップ、オルダスーハックスリーだけでなく、全世界の人類がこぞって待望する技術ではないのか。
そうやって目ざめたニューロ
