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カルマ(業)とは?
「カルマ」というと、よくスピリチュアルや占いの世界でも
聞く言葉です。何か自分を縛っている目に見えない
運命の力のように思いますが、
一体どんなものなのでしょうか。
カルマ(業)とは
カルマというのは、インドの言葉で、
中国の言葉に翻訳されて「業(ごう)」と言われます。
意味は、行為のことです。
私たちの運命は、自分の業が原因となって、
因果の道理にしたがって生みだしています。
善い行いは善い運命を生みだし、
悪い行いは悪い運命を生みだします。
ひとたび業を造ってしまうと、
そこから生み出される運命は避けることはできません。
まいたタネは必ず生えるということです。
善い行いも悪い行いも、寸分の狂いもなく
強烈な力で因果応報の報いを引き起こす、
ということです。
カルマ(業)に3通り
行為というと、普通は「身体で何かすること」だと思いますが、
仏教では、「口でしゃべること」や「心で何か思うこと」も、
業といわれます。
このような、
身体でやったことを「身業(しんごう)」といい、
口でしゃべったことを、「口業(くごう)」といい、
心で思ったことを「意業(いごう)」といわれ、
これらを「身口意の三業(しんくいのさんごう)」といわれます。
仏教ではこのように、
行いを心と口と身体の3方面から見られます。
そして、世間では、心でよからぬことを思っても、
口や身体に出さなければとりあえずセーフと思っていますが、
仏教ではアウトです。
口や身体が動くのは、心が命じたからですから、
口や身体が悪いことを言ったやったりするのは、
心に責任があります。
悪い事をした場合の主犯は、心になります。
ですから仏教では、口や身体よりも、
心で何を思っているかを最も重く見られます。
ですから
「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
という歌にもありますように、
身体で殺すのも恐ろしい罪ですが、
心で思うのは、最も恐ろしいと教えられています。
カルマ(業)が運命を生み出すしくみ
この心と口と身体の三つで造られた行いは、
目には見えませんが業力という力のようなものになって、
決して消えることなく蓄えられます。
これを「業力不滅(ごうりきふめつ)」といいます。
その不滅の業力が、私たちが生まれる前、果てしない遠い過去から
死んだ後、永遠の未来に向かって流れて行る藏のような心に蓄えられます。
「私」というと、自分の肉体だと思っていますが、
肉体は河の水面に浮かぶあぶくのようなもので、
あぶくが生まれたり消えたりしている間も、
とうとうと流れる大河のような永遠の生命があります。
この永遠の生命が、「阿頼耶識(あらやしき)」といわれる藏のような心です。
この阿頼耶識は、心理学でいう深層心理や無意識よりはるかに深いもので、
私たちの本心です。
この前世から現世、来世へと流れて行く不滅の阿頼耶識に
不滅の業力がおさまるのです。
そして縁が来たときに、因と縁が和合して、
目に見える運命となって現れます。
目に見えない業力が、どうして目に見える運命を生み出すのか
分かりやすく説明した歌に
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかは」
という歌があります。
平安時代の昔から桜の名所といわれる奈良県の吉野山は、
毎年春が来ると、きれいな桜が咲き誇ります。
そこである人が、冬に吉野山に行ってみると、
枯れ木のような桜の木がつくんつくんと立っているだけでした。
「なぜ春になるとあんなきれいな花が咲くのだろう」
と思って、木を割ってみたところ、
花やつぼみのような、花が咲きそうな形跡はどこにもなかった
という歌です。
しかし、目には見えませんが、桜の木には、
花を咲かせるような勢力がありますので、春の陽気にふれると、
目に見える美しい桜の花が咲き乱れるのです。
ちょうどそれと同じように、
私たちが心と口と身体で何かの行いをしますと、
目には見えませんが不滅の業力となって
阿頼耶識に蓄えられて決して消えることなく流れて行きます。
そしてやがて縁が来たときに、目に見える運命となって現れるのです。

